芟エ始仏典から学ぶ  
仏陀の教えを紐解く
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【二つの観察法】

『スッタニパータ(経集)第3章第12経「二種随観経」(岩波本「二種の観察」』は、決まり文句の散文とそれと関連した韻文(偈)を並べる体裁をとり、その内容は「苦」と「苦の滅の観察」に種々の項目をあげた経です。
そこに「四聖諦」と「縁起説」の原型が示されているのですが、その特色は、いわゆる縁起の系列を羅列したものではありません。
ただ、苦の原因として種々の項目をあげていて、それらの詩偈は他の経典、たとえば「相応部」や「増支部」、「小部」の「イティヴッタカ」(如是語)、漢訳「増阿含経」に類似のものがありますが、散文は独自のものです。
ですから、その散文に対する本経の詩偈は古い素材と考えて良いでしょう。
以下、諸項目の中でとくに縁起説に関わるものを列挙して、その内容を考えてみたいと思います。


先ず、「四聖諦を知らない人々は心の解脱、智慧の解脱を欠く」(『スッタニパータ』第724〜725偈)が「四聖諦を知った人々は心の解脱を具現し、智慧の解脱を具現する」(同第726〜727偈)と語り、以下、苦しみが生ずるのは何に縁るか、というひとつの観察と、どうすれば苦しみが生じないか、という第二の観察法で種々の項目を列挙しています。

1、「___略___。『およそ苦しみが生ずるのは、すべて(=生存の)素因(=ウパディ)に縁って起こるのである』というのが、ひとつの観察(法)である。『しかしながら素因が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察(法)である。___略___」。『スッタニパータ』第728偈の前文

2,「___略___。『どんな苦しみが生ずるのでも、すべて無明に縁って起こるのである』というのが、ひとつの観察(法)である。
『しかしながら無明が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが、第二の観察(法)である。___略___。」
 『同』第729偈〜730偈前文

3、「___略___。『およそ苦しみが生ずるのは、すべて潜在的形成力(=行)に縁って起こるのである』というのが、ひとつの観察(法)である。『しかしながら潜在的形成力が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生じることはない』というのが、第二の観察(法)である。___略___」。『同』第731偈〜733偈前文


4,「___略___。『およそ苦しみが生ずるのは、すべて識別作用(=識)に縁って起こるのである』というのが、ひとつの観察(法)である。『しかしながら識別作用が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生じることはない』というのが、第二の観察(法)である。___略___」。『同』第734偈〜735偈前文

以下簡略

5,苦しみが生ずるのは接触(=触)による(ひとつの観察)。接触が消滅するならば苦しみの生ずることなし(第二の観察)『同』736〜737偈前文。

6,苦しみが生ずるのは感受(=受)による(ひとつの観察)。感受が消滅するならば苦しみの生ずることなし(第二の観察)『同』738〜739偈前文。


7,苦しみが生ずるのは妄執(愛執=タンハー)による(ひとつの観察)。妄執が消滅するならば苦しみの生ずることなし(第二の観察)『同』740〜741偈前文。


8,苦しみが生ずるのは執着(=取)による(ひとつの観察)。執着が消滅するならば苦しみの生ずることなし(第二の観察)『同』742〜743偈前文。


9,苦しみが生ずるのは起動(=あくせく。アーランバー)による(ひとつの観察)。起動が消滅するならば苦しみの生ずることなし(第二の観察)『同』744〜746偈前文。


10,苦しみが生ずるのは食料(=アーハーラ)による(ひとつの観察)。食料が消滅するならば苦しみの生ずることなし(第二の観察)『同』747〜749偈前文。


11,苦しみが生ずるのは「妄執」の動揺(=インジタ)による(ひとつの観察)。動揺が消滅するならば苦しみの生ずることなし(第二の観察)『同』750〜751偈前文。


ここで、問題として浮かび上がってくる観察は「1、」の「ウパディ(生存の素因)」という術語です。
漢訳は「億波提」と音写しているのですが、「依著」存在の基礎と言う意味の言葉です。
『相応部』12.第66経に、


 渇愛(タンハー)を捨離したものはウパディを捨離し、ウパディを捨離したものは苦を捨離す。
苦を捨離したものは生・老死・愁・悲・苦・憂・悩より解脱す。  (『相応部』2.110頁。『南伝』第13巻161頁)


とあります。
あるいは、「ウパディは苦の根本であると了知し、無依処となり、依著を滅することによって解脱する。(『中部』2.260頁』といいます。
そして、「苦しみの生起のもとを観じた人は、再生の素因(=執着)をつくってはならない」(『スッタニパータ』第1051偈)とあり、その素因に対して「渇愛(=タンハー)などの依著を因として」と注釈(『バラマッタージョーティカー』U。590頁)している点から、以下の理解が成り立つと思います。

人は生存の基盤、素因があるから執着し、執着するから喜んだり憂うる(『スッタニパータ』第33〜34偈)のです。
したがって、ウパディというのは執着するもとのもの、ということになります。
ですからお釈迦様は「生存の素因を超越し、諸々の煩悩の汚れを滅ぼし」た師(『スッタニパータ』第546偈。『テーラガーター』第840偈)として弟子達から礼拝されたのです。

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