芟エ始仏典から学ぶ  
大般涅槃経
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◆ アーナンダ廟での説法

仏陀は早朝内衣を着け、衣と鉢を持ってヴェーサーリー市に托鉢のために入りました。
鉢とは食鉢のことで、鉢を持って市中を回られると、信者がそれに食べ物を入れてくれるのです。
仏陀はヴェーサーリー市で托鉢を終え、その托鉢で得られた食べ物で食事をされました。
食事をすませてから、*象が眺めるようにヴェーサーリー市を眺められ、そして阿難に言われました。

「阿難よ、これが如来の最後のヴェーサーリーの眺めとなるであろう。
いざ阿難よ、パンダ村に行こう。」

このときは雨期も終わり、阿難の他にも沢山の弟子達が随従していました。
パンダ村でも仏陀はそれらの弟子達に数々の法話をされ、特に多くの教えを「戒・定・慧」の三学に纏めて話されました。
教えのうちの若干のものは「戒」の教え『戒学』、若干のものは「定」の教え『定学』、更に若干のものは「慧」の教え『慧学』というように、多数の教理を三学に配当し、整理して、説法されました。
これは師亡き後に、弟子達が教法を誤りなく億持することができるようにと配慮してなされたこtであります。

パンダ村に随意の間止住されてから、仏陀はハッティ村に行かれました。
それからアンバ村へ行かれ、そしてジャンブ村、更にボーガ城に行かれました。
以上のように、ヴェーサーリーからボーガ城まではかなりの距離があります。
ゆえに、この期間を旅行するのに一ヶ月以上を費やされたことでしょうし、更に仏陀が、雨安居の時に「寿命を支える力」を捨てられてから、安居が終わるまでにも一ヶ月以上かかっているでしょう。
ゆえに、仏陀がボーガ城に着かれた時には、三ヶ月の期間は残り僅かになっていたのです。

ボーガ城では、仏陀はアーナンダ廟に止住されました。
このアーナンダ廟では、仏陀は弟子達に四大教法を説かれました。
四大教法とは、仏陀亡き後、弟子達の拠り所となる教えで、これを四つに分けて示されました。

第一は、仏陀が般涅槃された後、一人の修行者が「私はお釈迦様から直接聞いた。これが法であり、これが律である。これが師の教えである。」と、このように言ったとしても、無条件で信じてはならない。
その修行者の言ったことを経典の中で調べてみて、更に律典の中に調べてみて、その言葉が経典か律典のどこかに見出されるならば、それは確かに仏陀の言葉である。
ゆえにそれを「仏陀の言葉」として受け入れてよろしい。

第二は、「教団から聞いた」と言う場合。
第三は「多くの長者から聞いた」と言う場合。
第四は、「ひとりの長者から聞いた」という場合。
いずれも、それらの者の言う言葉が、経典や律典の中に見出す事ができれば、それは仏陀の言葉として受け入れてよろしい、と言う教えです。

これは、仏陀の真実の教えであるか否かの判定の基準を、経典や律典におくことを意味しています。
言いかえれば、仏陀亡き後は、仏陀に代わって弟子達を指導するものは「経典」と「律典」であることを、ここに明言されたわけなのです。




象が眺めるように・・・体全体の向きを変えて後ろを振り返る様子。
廟・・・廟は原語では「チャイトヤ」と言い、神様の小さな祠を指しています。
インドでは昔から大樹の根元に神様の祠をつくり、神様を祀り礼拝する習慣がありました。
よって、このアーナンダ廟での止住も、祠のある大きな大樹の林のことであると考えられます。



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