1/11ページ目 **大いなる涅槃への旅立ち** ◆ 王舎城を立つ 王舎城の霊鷲山に住しておられた仏陀は、ふと故郷への旅を思い立たれました。 既に成仏して以来四十余年の歳月が流れ、その間を中インドの各地を巡歴しつつ、多くの人々を教え導いて来られたのですが、七十九歳の高齢となった今は、もはやその尊い役目も終わりに近づいてきている事を感じられたのでしょうか。 当時の中インドの中央には、西から東に向けて大河ガンジス河が流れています。 この河の南方の広大な領域がアジャセ王が統治しているマガダ国で、その王都が王舎城です。 マガダ国の更に南方にはヴィンドヤ山脈が聳え、これによりマガダは南インドと隔てられています。 反対にマガダ国の北方を見てみますと、ガンジス河を越えた北岸地方はヴァッジー国で、その首都はヴェーサリーです。 そのヴァッジー国の西方には、これもまた広大なコーサラ国があります。 コーサラの首都は舎衛城と言って、かなりインドの北方に位置している為に暑熱が厳しくはありません。 この舎衛城には有名な祇園精舎がありました。 仏陀はこの祇園精舎をとても愛されていまして、雨期の雨安期をここで過ごされる事が多かったようです。 コーサラ国の王は波斯匿王「(はしのくおう)、またの名をプラセーナ・ジット」でしたが、仏陀の晩年にはその王も亡くなり、王子の瑠璃王(ヴィドゥーダバ)が跡を継いでいました。 しかしこの瑠璃王はとても暴虐な王で、後にはシャカ族を滅ぼしてしまいます。 彼はあまりにも暴虐だったために民心を失い、やがてマガダの国王アジャセに滅ぼされてしまうのです。 仏陀の生まれ育ったシャカ国はコーサラの北東に位置する小国で、当時はコーサラの属国でありました。 首都はカピラヴァスツですが、ネパール国内に入っています。 コーサラ国から南方に下がってガンジス河を越えると、ウデーナ王が治めるヴァンサ国があります。 首都はコーサンビーであります。 このように、仏陀が巡歴を重ねておられた当時の中インドでは、マガダ・ヴァッジー・コーサラ・ヴァンサの四大国が拮抗して栄えておりました。 中でもマガダ国が一番の勢力を持った大国で、しかもアジャセ王は優れた君主でありました。 アジャセ王は、まず北方のヴァッジー国を滅ぼし、次いでコーサラとヴァンサを滅ぼして中インドを平定し、マガダの王統を立てました。 これがインドにおける統一国家としての最初で、その後マウリヤ王朝が現れ、中インドのみならず北インドから南インドを統一し、インド全体に君臨する国家ができました。 このマウリヤ王朝に、紀元前三世紀アショーカ王が現れます。 アショーカ王は、インド不世出の明君と言われた王で、後年仏陀の教えに帰依し、仏教の教団を援助した王としてとても有名な王です。 アショーカ王によって、仏教はインド全体に急速に広められていったと言っても過言ではないでしょう。 しかしながら、仏陀晩年のこの当時はまだインド統一はできておらず、マガダのアジャセ王が北方のヴァッジー国を滅ぼそうとして、ガンジス河南岸のパータリ村に城砦を築いていました。 アジャセ王は、ヴァッジーを討伐した方が良いのかどうか決心しかねており、行雨(ヴァッサカーラ)大臣を使いに立てて仏陀の助言を求める事にしました。 それに対しての仏陀の答えは、「ヴァッジー族がしばしば会議を行い、よく団結し、和合し、なすべき義務をよく果たし、みだりに法律を改めず、老人を敬いその意見を重んじ、婦女や子供を暴力で連れ去るようなことをせず、ヴァッジー族の祖先の廟を敬い、宗教者を尊敬する」など、ヴァッジー族の美点を多く挙げて、更にヴァッジー国の強大なることを示して、間接的に戦争の不可なることを諭しました。 仏陀はこれに関連して、弟子達にも次のように告げられました。 即ち、仏弟子の教団が常に和合し、しばしば集会し、話し合いによって事を決し、先輩を敬い、教団の規則をよく守り、規則をみだりに変えず、相互に信頼し、慙愧があり、教えを聞く事を喜び、修行に精進するならば、教団に繁栄は期待せられ、衰亡はないであろう、と説かれたのです。 ◆ 旅立ち 意を決した仏陀は、弟子の阿難を共に連れて北を指して王舎城を出発されました。 まずアンバラティカーに行き、そこの王の園林に逗留し、次はナーランダ村に行きました。 ナーランダーは後年五世紀になって仏教の大寺院が建立されましたが、当時は広々とした農村地帯でありました。 仏陀はパーヴァーリカのマンゴーの林に止住されました。 このとき舎利弗が訪ねてきて、仏陀の比類ない美徳を讃嘆しました。 その次に仏陀はパータリ村に行きました。 ここはガンジス河に沿っており、後にはパータリプトラと呼ばれる大都市になり、アショーカ王の都城として栄えるのですが、仏陀が行かれた時はまだ寂れた寒村で、行雨とスニーダと言う二人のマガダの大臣が人々を指揮して、ガンジス河の河岸に城砦を築いておりました。 仏陀はここでガンジス河を渡り、対岸のヴァッジー国へと行きました。 ガンジス河の北岸にあった村はコーティ村と言い、そこから更にナーディカ村を通ってヴェーサリー市に到着しました。 王舎城を出てからも通る村々において仏陀は、集まってきた村人達や随従している弟子達に対してそれぞれに適した法話をなし、聴者を励まし、鼓舞し、喜ばしめられたのでした。 やがて仏陀と随従する弟子達はヴェーサリーにやってきて、遊女アンバパーリーの園林に止住されました。 このようにしばしば園林に止住されるのは、、インドでは雨期以外殆ど雨が降らないので屋外に宿る事が可能だったからです。 遊女アンバパーリは、仏陀が自分の園林に止住されていることを知り、大変喜びました。 そして、美しい乗り物を装備して園林へと急ぎました。 乗り物が通れなくなったところで彼女は車を降り、徒歩で仏陀の傍へと近づいてゆきました。 そして、仏陀に対して心を込めて敬礼し、一方に座しました。 仏陀は座したアンバパーリーに対して法話を説かれ、彼女を教え示し、訓戒し、鼓舞し、彼女の心を満足させました。 アンバパーリーは、仏陀の教えに励まされ、心は喜びで満ち溢れ、尊い師にこう告げました。 「尊い師よ、師は仏弟子達とともに、明日、私の家で食事の供養をお受け下さい。」 それを聞いた仏陀は、沈黙をもってこの申し出をお受けになりました。 アンバパーリーは夜も明けないうちから食事の用意をして、美味しい柔らかい食物、かたい食べ物を沢山作り、手ずから仏陀を上首とする仏弟子達に、満足するまで差し上げました。 やがて食事が終わると、喜びに溢れた彼女は自分の園林を仏陀や仏弟子達の教団へ献じました。 仏陀は快くこの申し出もお受けになり、やがて次の村を目指して出発なさいました。 [編集] |