21/45ページ目 見よ、見守っている親族がとめどなく悲嘆に暮れているのに、人は一人ずつ、屠所に引かれる牛のように、連れ去られる。 (スッタニパータ580) この世における人々の命は、定相なく、どれだけ生きられるか解らない。傷ましく、短くて苦悩に繋がれている。 生まれたものどもは、死を遁(のが)れる道がない。 老いに達しては、死がくる。 じつに生があるものどもの定めは、このとおりである。 (同574・575) 欲望をかなえたいと望み貪欲の生じた人が、もしも欲望をはたすことができなくなるならば、かれは矢に射られたかのように、悩み苦しむ。 (同767) 妄執を友としている人は、この状態からかの状態へと長い間流転して、輪廻を超えることができない。 (同740) 人々は「わがものである」と執着した物のために悲しむ。 (自己の)所有しているものは常住ではないからである。 この世のものはただ変滅するものである・・・ (同805) 人が「これはわがものである」と考える物、___それは(その人の)死によって失われる。 われ従う人は、賢明にこの理(ことわり)を知って、わがものという観念に屈してはならない。 (同806) 見よ。神々ならびに世人は、非我なるものを我と思いなし、〈名称と形態〉(個体)に執着している。「これこそ真理である」と考えている。 (同756) ここではお釈迦様が人間をどのように見ていたか、と言う事が解ります。 @人間の存在が苦である。 A欲望・執着・妄執の存在である。 B常なきもの、無常なる存在である。 要約すれば、上の3つに大きく分けられるのが、私達「人間」だと考えているようです。 そして、「苦」と言うと、先ず一番先に私達が思い浮かべるのは身体的苦痛の事ですが、お釈迦様は「楽」も苦しみである、と説かれています。 「苦」とは原語では「ドゥクハ」といい、漢訳で「苦」と訳していますが、「凶」と訳したものもあります。 健康であったものが、病を得て死んで逝く。 財産や子供に恵まれていた者が、戦争や災害などでやがて全てを失ってゆく。 そう言う嘆きを思う時、「苦」よりも「凶」と言う言葉が当てはまるのかもしれません。 楽(=快楽)であろうと、苦(=不快感)であろうと、非苦非楽であろうとも、内的にも外的にも、感受されたものはすべて、「これは苦しみである」と知る。 (同739) 人々がいろいろと考えてみても、結果は意図とは異なったものとなる。 壊れて消え去るのは、このとおりである。世の成りゆくさまを見よ。 (同588) 生も苦しみである。老も苦しみである。病も苦しみである。死も苦しみである。愛さない者と会うことも苦しみである。愛する者と別離することも苦しみである。すべて欲するものを得ないことも苦しみである。要約していうならば、五種の執着の素因(五取蘊)は苦しみである。(___律蔵) 律蔵にあるこの詩が、私達がよく知っている「四苦八苦」を言い表した偈文です。 後には「一切皆苦」として、四法印の中に位置づけられています。 次回はもう少し詳しく、お釈迦様の考えていた「人間像」を探ってゆこうと思います。 (参考書籍 中村元・田辺祥二 NHKbooks) <<重要なお知らせ>>@peps!・Chip!!をご利用頂き、ありがとうございます。
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