20/45ページ目 (南伝 相応部経典 七、一一、耕田。漢訳、雑阿含経、四、一一、耕田) ********************************************************* 「信がわが蒔く種である 智慧がわが耕す鋤きである われは身・口・意において 日々悪しき業を制する そはわが田における除草である わが牽く牛は精進にして 行いて帰ることなく おこないて悲しむことなく われを安らけき境地に運ぶ かくのごとく耕し、かくのごとく種蒔いて われは甘美の実を収穫する」 この偈文は、あるバラモン僧の家に托鉢に行かれたお釈迦様に対して、バラモン僧が「沙門よ、私は田を耕し種を蒔いて食を得ています。あなたもまた、自ら田を耕し種を蒔いて食を得てはどうですか。」と言われた言葉への返事です。 このバラモン僧は、現代で言えば「働かざる者、喰うべからず。」と言う事を言いたかったのでしょうね。 でもお釈迦様はこの詰問に対して、このように堂々とお答えになられました。 この言葉の中に、お釈迦様らしいとても味わい深いものを感じさせられます。 インド・ユーローピーアン語族の諸語においては、大地を開墾することと、人間の精神を開発することが、同じ一語をもって表現されるという事があったようです。 例えば英語でもって申しますと「カルティヴェィト」(cyltivate)と言うのは、「大地を開墾する」と言う言葉であるとともに、また「人間の精神を開発する」事を言う言葉でもあります。 あるいは、英語では文化と農業が同じ語源の言葉で語られています。 即ち、文化は「カルチュア」(culture)であり、農業は「アグリカルチュア」(agriculture)であります。 このように、耕作と文化(大地の開墾と人間の開発)が、言語の上で繋がりを持っていると言うのは、決して偶然ではないように思います。 この両者の間には、どうやら同じような基本的構造が潜んでいるように思われてなりません。 田を耕す雑木雑草を取り除き、石ころを取り除き、鍬を入れあるいは鋤きをもって耕さなければなりません。 更に土壌が悪ければ、改良しなければなりません。 灌漑の工夫もしなければならないでしょう。 このように苦労を重ねて、始めて荒れ地が田畑となり、やっとの思いで収穫にありつけるのですね。 同じように、人間も生まれついて自然のままの人間と言うのも決して善美とは申せない存在であると思います。 寧ろ先ほどの「荒れ地」と同じようなものではないでしょうか。 その「人間」と言う荒れ地に、鍬を入れ鋤を入れて良い田畑に転じる事こそ、お釈迦様が述べられた偈分に言い表されているのだと思います。 人間の開墾には、先ず智慧をもって耕され、本来の無知蒙昧を切り開かねばなりません。 そこには「貪欲・瞋恚・愚痴」があり、利己主義があり、転倒或いは残忍性があります。 智慧と言う鋤でこれらを切り開き、見事な美田を作り上げる。 これこそがお釈迦様が伝えたかった事ではないかと思うのです。 <<重要なお知らせ>>@peps!・Chip!!をご利用頂き、ありがとうございます。
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