芟エ始仏典から学ぶ  
仏陀の教えを紐解く
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【十二支縁起説】

原始仏教の思想を代表する教えのひとつに「縁起説」があります。
原始仏典には、私達がよく耳にする「十二支縁起」の他に「十支縁起」「九支縁起」「八支縁起」「五支縁起」など、種々の縁起系列が見られるのですが、その中で、九支、八支、五支はいずれも十二の支分のいずれかの支分から始まるものです。
従って最も系列の整った「十二支縁起」が、縁起説を代表するものと考えて良いでしょう。
これを踏まえて『スッタニパータ(経集)』第3章第12経「二種の観察」に見られる素朴な縁起説が、どのように語られていたかを考えてみたいと思います。

そこで先ず、「十二支縁起」について、最も整った形で伝承する一文を紹介します。
これは成道直後の仏陀の悟りの内景を叙述したものです。

 「十二支縁起=十二因縁」について

 そのとき仏・世尊は、ネーランジャラー(尼連禅)河の岸辺の菩提樹下で悟りをひらかれ、ウルヴェーラー村に滞在していた。

世尊は菩提樹下で七日間、足を組んだ「結跏趺坐(けっかふざ)」ままで解脱の楽しみを享受しながら座っていた。
そして初夜に、さとった縁起の真理を順・逆に思考した。
すなわち・・・

@無明(無知)によってA行(人間の行為を形成する思考。滞在的形成力)がある。この行によって、B識(識別作用。心)があり、識によってC名色(名称と形態=対象)がある。名色によってD六処(六入ともいう。心と対象を結ぶ六つの領域で、眼・耳・鼻・舌・身・意の感官)があり、六処によってE触(心が対象と接触する)がある。
触によってF受(感受作用)があり、受によってG愛(渇愛。渇きに似た欲望、妄執)がある。
愛によってH取(執着)があり、取によって、I有(生存)があり、有によってJ生(出生、生まれること)があり、生によってK老死(老い死にゆくこと)愁い、悲しみ、苦しみ、憂い、悩みが生起する。

(以上を順観、流転の縁起という。)


又、無明を余りなく滅すれば行の滅あり、行が滅すれば識の滅あり、識が滅すれば名色の滅がある。
名色が滅すれば六処の滅があり、六処が滅すれば触の滅がある。
触が滅すれば受の滅があり、受が滅すれば愛の滅がある。
愛が滅すれば取の滅があり、取が滅すれば有の滅があり、有が滅すれば生の滅があり、生が滅すれば老死、愁い。悲しみ、苦しみ、憂い、悩みが滅する。

(これを逆観・還滅の縁起という)

そのとき世尊は、この意味をとって次の感興話を発した。

 実に禅定につとめ励む修行者にとって、もしもろもろの法が明らかになるとき、かれの疑いはすべて消滅してしまう。あらゆるものには原因がある、という事をさとるから、と。
         (『ヴィナヤ』1・1〜2頁。 『南伝』第3巻1〜2頁)

ここに「無明」という第一支によって「行」があり、「生」によって老死苦ありという第十二支までの系列が示されていたのです。
しかもその十二支は、各支の関係性において示されていたことに気づかされます。
さて、この十二支縁起を簡潔かしますと、「無明によって老死苦があり、無明の滅によって老死苦の滅がある。」という図式になるでしょう。
つまり、私達の生・老死苦は無明によって生じる、という事になるわけですね。
そしてこの無明は「四聖諦に対する無知」(『相応部』3・162〜163頁。『ヴィバンガ』135頁)と見る事が出来るのです。
要するに、四つの真理に対する無知という原因によって、現実の生・老死苦があると言うことを示したのが、十二支縁起の基本姿勢となるのです。

では、一体縁起と言う思想は何を言うのでしょうか。
原始経典には、

 縁起を見る者は法を見る。法を見る者は縁起を見る。(『中部』1・190〜191頁。『南伝』第9巻339頁「大正蔵」第1巻476頁上)

 法を見る者はわれを見る。われを見る者は法を見る。(『相応部』3・120頁。『南伝』第14巻190頁)

と言う、有名な一文が伝承されています。
しかも、この縁起=縁生法は「仏=如来の出世もしくは未出世であれ、常住である」(『相応部』2・25頁。『南伝』第13巻37頁。「大正蔵」第2巻84頁中)というのです。

『相応部』12・第41経に、

 智慧によって聖(とうと)い理法がよく見られ、よく知られるというのはどういう事なのか。
家主(居士)よ。聖い弟子は縁起をよく思惟している。
このように「これあるときかれあり、これなきときかれなし。これ生ずるよりかれ生じ、これ滅するよりかれ滅す。」。
すなわち無明に縁って行あり、行に縁って識あり・・・・・ないし・・・・・(生に縁って老死苦あり)。
このように、すべての苦の蘊(あつまり)の集起がある。
しかし、無明の余りなき離貪・滅より行の滅がある。行の滅より識の滅がある。・・・・・ないし、・・・・・(生の滅より老死苦の滅がある。)
このように、すべての苦の蘊の滅がある。(『相応部』2・70頁。『南伝』第13巻102〜103頁)


ここに見る「これ」と「かれ」とは、実は相関性、相互依存の関係にあることを示しております。
漢訳の「此有故彼有(『大正蔵』第2巻84頁。」は文字通り「これあるからかれあり」と読めるのですが、パーリ聖典の原語では「これあるときかれあり、これなきときかれなし。」で、AgaあるときBがあり、AがないときBはないという図式です。
したがって、縁起とは縁(よ)って生起するということなのです。
これを「因縁法」(『大正蔵』第2巻84頁中)と称するのは、物事には「因」(直接因)と「縁」(間接縁)があって存在するという意味です。
したがって因果論とは区別すべきであります。

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