コンシェルジュリ−牢獄

1793年8月2日
連合軍が快進撃を続ける中で国民議会は、革命の敵を一掃する目的でマリー・アントワネットをコンシェルジュリー牢獄へと移送した。

王妃を乗せた馬車は、革命裁判所(※現フランス最高裁判所)正面から入って、正門『五月の中庭』越しの中庭に停車して降ろされた。





コンシェルジュリー牢獄は元々、フィリップ4世の宮殿で14世紀後半から牢獄として使用されて以降、フランス革命時には多くの王族、貴族が収容された。

かつて、王妃と火花を散らして対立したデュ・バリー伯夫人も収容されて断頭台に送られた。

この牢獄に入ると、生きて出て来る事は出来ない『死の控えの間』と言われていた場所だった。

王妃がタンプル塔から、この牢獄に移送されて来た理由には、フェルセンジャルジェ将軍をはじめ、王妃を救出する動きを牽制する為でもあった。

王妃は『カペー夫人』と称されていたが、コンシェルジュリーの収監名簿には、監獄所長リシャールが『フランスに対して陰謀を企てた罪』と記入した。
そして、王妃には『女囚208号』と名が付けられた。






守衛に金貨を払えば、誰でも王妃の独房の中を視察する事が出来た。


現コンシェルジュリー内にある『贖罪礼拝堂』の場所が本来、王妃が最後の2ヶ月半を過ごした独房部屋だった。


『贖罪礼拝堂』

この贖罪礼拝堂は、王妃の娘マリー・テレーズ(後のアングレーム公妃)が、王政復古後にフランス王太子妃に即位後、亡き母の為に造築した。

独房は、二つに区切られて、半分を見張りの憲兵が使用して、残りが王妃の生活空間に充てられた。


便器、粗末なベッド、テーブル、椅子2脚、足台1つあるだけだった。



少なくともタンプル塔では、王家の人間だと言う事で配慮されていたがコンシェルジュリーでの独房部屋は、備品も設備も囚人用の物だった為に住み心地は格段に悪くなった。

そして、特に王妃に監視の目が厳しく光っていたのは、幾度も脱走計画を企てて来た為であった。
後に王妃を救出しようとする、王党派との手紙や暗号文のやり取りした書文が壁の中から発見されている。

タンプル塔よりも劣悪な環境にも関わらず、コンシェルジュリーの方が雰囲気が良く感じられたのには訳があった。

タンプル塔で監視役をしていたのは、革命活動家の中からパリ市が選んだ反王政の人間達。
一方、コンシェルジュリーの監視役は、革命前に任命されている人達で王家を敬う気持ちも持ち合わせ、王妃に対して敬意を表し、接する2人の監視兵が就けられていた。
この2人は、タンプル塔にいた警備兵よりも好意的で定期的に花を持って来たり、革命に思誠を誓う事を拒否した僧侶と会う事も黙認してくれた。

そして、王妃の排泄係りの他に王妃の身の回りの世話をする部屋女中ロザリー・ラモリエール(※本名マリー・ロザリー・ドゥラモリエール)とアレルの2人が就けられた。
女中らは、王妃の為に自費で小さな鏡をプレゼントしたり、自分の部屋から小さな椅子も持って来て提供した。

監視責任者のミショニは、視察に来る度にタンプル塔の子供達の様子や外の出来事を教えたり、リシャール所長夫人も色々と便宜を図って、他の囚人とは違う上等なシーツを用意したり、特別な料理も用意してくれた。



タンプル幽閉時に比べると王妃に対して好意的な者が多かった。
しかし、幾ら好意的な者が周りにいても動く事は制限されていた。

朝は7時に起床して、就寝は22時。
朝食はパンで飲み物は珈琲かココア。
髪を整えて、2着しかない黒か白の服を着ると何もする事がなくなってしまう。

普通の囚人は、中庭(メー)で散歩や会話が出来た。
しかし、王妃は独房から出る事さえ許されていなかった為に独房内を歩くか、散歩する囚人を眺めて過ごしていた。

読書は許可されていたが、編み物と刺繍は禁止。
針で怪我をするという表向きの理由であったが、自殺をされては困るという事からだった。

また、壁布から抜き取った糸を紐にして編んだりして、時間潰しをしていた。

しかし、独房で過ごしす王妃の健康状態は極めて悪く、慢性的な下腹部の出血にも悩まされていた。
ロココの女王として、華やかなヴェルサイユ宮で優美に過ごしていた頃の王妃の美貌の面影は無く、見違える程に衰えてしまい、見る者が胸を痛める程だった。



守衛に金貨を払うと誰でも面会が出来た事から日々、王妃の独房には見知らぬ面会人が来ていた。
毎回、面会に来る誰もが見知らぬ人で、王妃は無視を決め込んでいた。

1793年8月28日
『カーネーション事件』が起きる。

王妃の独房に監視責任者のミショニが連れて来た面会人は、聖ルイ騎士団シュバリエ・ド・ルージェヴィル士爵という男だった。

王妃も見覚えのある男で彼は、テュイルリー宮襲撃事件の時に国王一家を助けてくれた人物だった。

彼は初対面を装っていたが、ボタンホールに挿したカーネーションを抜き取ると床に落として、王妃に目配せをした。
王妃が拾って見るとカーネーションの中に手紙が入っていた。

●王妃の救出計画がある事

●しかるべき味方がいる事

●ミショニもその1人である事

●買収用の金が用意されている事
などが書かれていた。

1793年8月30日
再びルージェヴィルが面会にやって来た。
買収用資金・金貨400万ルイと紙幣1万リーブルを王妃に渡して、脱出は2日後である事を告げた。

王妃は、ペンを持つ事を禁止されていた為に紙片にピンで刺して、『了解』と『定刻に準備して待っている事を希望に託す』と返事に記した。

※王妃がピンで刺し記したメッセージの紙片は、パリの国立文書保存館にある。

そして、王妃は監視責任者ミショニの買収に成功していた。


ピンで刺し記された紙片と使用していた椅子

1793年9月2日
深夜、監視責任者ミショニとルージェヴィルが独房に来て『カペー夫人をタンプル塔に移す事になった』と牢番と監視兵らに告げた。

王妃は、ミショニに付き添われて、幾つもの扉をくぐり抜けて、最後の扉を潜り抜け出た所に逃走用の馬車が用意されていた。

しかし、いざ王妃を牢外に脱出させる手前でミショニが反対し出し、騒動になった事で計画が失敗に終わった。

そして、脱出計画が露見してしまい、関係者に対する尋問を保安委員会が始めた。
ルージェヴィル士爵は、上手く逃走する事が出来た。
しかし、ミショニは逮捕されて翌年6月に処刑された。

この『カーネーション事件』をキッカケに、それまで王妃に対する裁判に積極的ではなかった世の中も一変して、裁判への動きが強くなった。

1793年10月12日
慢性的な出血と風邪で体調の優れない王妃は、夕方、世話係のロザリーが温めて持って来た部屋着を着て休んでいた。

そして、ベッドに入って2時間も経たない頃、これから審問をするという事で憲兵を伴って、法廷吏が独房を訪れた。

王妃は黒い喪服着に身を包んで法廷に向かって、この夜、第1回審問が行われた。
裁判長はロベスピエールの友人エルマン、検事はフーキエ・タンヴィル。
たった1人で審問に挑んだ王妃は、名前を聞かれると品位と威厳に満ちた姿で『マリー・アントワネット・ロレーヌ・ドートリッシュ、フランス国王の未亡人』と答えた。

審問での質問と告発は、殆ど無理矢無に作り上げられた内容で、王妃は冷静に気高く答弁した。
そして、数時間後に公選弁護人の依頼に同意して、やっと法廷から解放された。

その頃、ブリュッセルに滞在していたフェルセンは、国民議会が王妃の罪状の証拠集めに難航しているという情報を得て、裁判が延期されるかもしれないという一縷の望みを持った。
しかし、フェルセンの願いも虚しく、国民議会は罪状を捏造してでも王妃を裁判に架けようとしていた。

1793年10月13日
午後14時、王妃の元に弁護士のショーヴォ・ラガルドが訪れた。
前日に弁護士に指名される書類を受け取ったラガルドは、コンシェルジュリーに着くと命令書を示して、王妃の牢に案内された。

ラガルドは、優しく威厳に満ちた王妃に審問の様子を聞いて、書記課から起訴状を貰って、その膨大な量と余りにいい加減な内容に驚いた。
書類を1つずつ検討するには時間がなく、正統な弁護が出来ない為に裁判の延期を国民公会に申請するように王妃に頼んだ。

だが、国王の処刑を決めた国民公会に頼む事を王妃の誇りが許さなかった。
しかし、ラガルドから『子供達の為に命を守る義務がある』と説得されて、王妃はペンを取った。

王妃は短期間で弁護士が起訴状を読んで内容を把握して、分析する事は難しく、子供達の母親として、自らの弁明は義務である旨、手紙を書いたが、その手紙が国民公会に渡る事はなかった。
手紙を受け取った検事フーキエ・タンヴィルは後日、ロベスピエールに手紙を渡して、その手紙はロベスピエールの死後に発見される事になる。

そして、フェルセンは愛する王妃を救う事が出来ず、遠く離れたブリュッセルで苦悩する中、王妃を死へと導く見せ掛けの裁判が翌日に迫っていた…。

※ロザリー・ラモリエールの手記

9月虐殺の少し後、私が勤めていたボーリュー夫人が亡くなり、牢獄の管理人はリシャール夫人が勤める事になりました。
コンシェルジュリーのマダム・リシャールは、囚人に対する私の同情心に対して、少しも反感を示しませんでした。

8月1日、王妃がこのコンシェルジュリーに移されて来ました。
ベッドは王妃に似つかわしくない物でしたが、私達が用意した上等なシーツと長枕でお休みになられました。

4日か5日目頃の事、王妃から金時計を取り上げる事になりました。
王妃の下着が届けられたのは、10日もしてからでした。
ミショニがマダム・エリザベートから預かって来たようです。
白麻のシュミーズ、ポケットハンカチーフ、三角スカーフ、絹や荒絹の靴下、白い普段着、夜のボンネット、沢山のリボンの端切れ。

王妃は大きな喪の帽子を被っておられました。
お持ちの寒冷紗でボンネットの仕立てをマダム・リシャールに頼みました。
私は残りの寒冷紗を頂きました。
まだ大切にとっています。

ある日、マダム・リシャールは彼女の息子、青い目の品の良い1番下の息子を王妃の部屋に連れて来ました。
王妃は、その息子を抱きしめ、優しくキスをして王太子の話を始めました。
マダム・リシャールは、かえって苦しめたのではないか…と、連れて行くのを止めようと話しました。

マダム・リシャールは法令により、お食事に使う王妃の銀器を隠す事になりました。
私は王妃が食事をされる器は銀のように磨きました。

王妃は鳥を二日間食べられるように2つに分けます。
その手さばきは見事です。
二皿目の野菜料理。
王妃はかなりの食欲でお召し上がりになりました。

マダム・リシャールがいた頃は、心のこもった食事を出されていました。
美味しい鳥、上等な果物。

9月半ば、ド・ルージェヴィルという男がミショニという衛兵によって、王妃の部屋へ連れて来られました。
王妃の服の裾の所にカーネーションを落として行きました。

女中のアレルは何もかも見ていて、フーキエに報告しました。
リシャールとマダム、上の息子は、サント・ペラジー、マドロネットの独房に入れられました。

新しい管理人はルボー、そして娘のヴィクトワール(マダム・コルソン)。
ルボーはマダム・リシャールの投獄の件で、くれぐれも不注意に親しくするのは気を付けるようにと言いました。

管理は厳しくなり、王妃の食事は、鳥か仔牛のお肉の主食に野菜料理は一皿になりました。

そして、マダム・アレルがいつも髪を結っていましたが、彼女がいなくなって、王妃はご自分で髪をお結いになるのです。

王妃は折り返しのある小さな部屋履きを履いていました。
私はこの綺麗な、うつぼ黒の履物にブラシをかけました。
サン・テュベルティ風でした。

ある将校が、私はいつも王妃の部屋履きをブラシをかけているのを見て、王妃の履物を1つ取り磨いてくれたのです。

不幸なカーネーション事件から、洗濯屋のソーリュウが来なくなり、代わりに私が真っ白に洗って差し上げました。

革命裁判所の書記は、王妃の幾つかかの下着類を取り上げ、時々1枚ずつ与えるようになりました。
王妃の2つの指輪も取り上げられました。

王妃の生活は、ご不自由で蜀代もランプもありません。
裁判を受ける日は断食させられました。

16日、フランス王妃が死刑の宣告を受けた事を知りました。
私は自分の部屋で叫び声と泣き声を押し殺しました。

夜が明ける前、宣誓司祭がやって来ましたが、王妃は断りました。

「今朝は何をお召し上がりになりますか」

王妃は涙を流しておりました。

「何もいりません。全ておしまいですから」

私はあえて「スープとヴェルミセルがございます。
しっかり、なさらなければなりません」と言いました。

幾さじか飲み込むのがやっとでした。

王妃は憲兵の前で注意深く、誰かが持って来たシュミーズを身に着けました。
朝に身に着けられる白いビケの普段着にモスリンの肩掛を身に付けました。
髪は少し高く結い上げ、ひだのある飾りで縁どられた寒冷紗の帽子。
形も変わらなければ傷みもしなかった黒い布製の靴。

私は王妃の前で悲しい思いをさせぬよう、さよならもお辞儀もせずに別れました。










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