王妃の裁判
裁判を受ける王妃

革命裁判所の起訴が死刑と同義であり、1度コンシエルジュリ−牢獄に収監されたら、そこを再び出て来る為には、断頭台への道を通らねばならない事をマリ−・アンネットは理解していた。

それでも、当初は王妃を裁判に掛ける動きは外国との交渉時の大事な人質だった為に想定されていなかった。

国王ルイ16世の裁判は、国家の裁判所を自任していた国民公会で正当な裁判を受ける事が出来た。

一方、王妃の裁判は不公平な形だけのもので、裁判をする前から、既に王妃の運命は決められていた。

急進化する革命裁判所は、1793年4月~1794年6月までの間に1251名を処刑した。
その後、審理不要の略式裁判が許されると47日間で13776名を処刑。
結局、革命政府は1万6千人を短期間で処刑した。

その革命裁判所の検事総長として、共和制への反対者すべての弾圧を一手に任されたのが、アントワーヌ・フーキエ・タンヴィルである。


フーキエ・タンヴィル

タンヴィルは、情容赦のない非情の鬼検事として、仮借なく人々を断頭台へと送り込んでいた。
毎日、革命広場のギロチンは反革命者を不気味な落下音と共に寸断していた…。
国王と同じく王妃マリーアントワネットも例外ではなかった。

王妃を裁判に掛ける事を強く望んだのが検事のタンヴィルと市民幹部ジャック・ルネ・エベール(タンプル幽閉時の監視人)だった。


ジャック・ルネ・エベール

革命政府の中には、外国との交渉手段として、王妃を利用しようとする意見も相変わらず根強かったが、肝心の相手国が交渉に乗ってくる気配もなく、仮に逃亡されたら反革命派の勢いが付いてしまうと考えた。

国民も王妃の裁判を強く望んだ為、国民公会は王妃を裁判に掛ける事を決定した。
そして、裁判をする為には王妃に有罪判決が出るようにしなければならなかった。
検事タンヴィルが革命裁判所の組織強化に取り掛かって、判事と陪審員を筋金入りの革命派で固める策に出た。

王妃は、革命裁判所で弁護人ショーヴォー=ラガルドとトロンソン・デュ・クードレーを任命した。

ショーヴォー・ラガルド弁護士の手記』
10月14日、トロンソン・デュクドレーと共に革命裁判所によって弁護人に指名された。
私は直ちに出発した。
王妃が入れられていた、この部屋は屏風で二つに仕切られていた。
右にはベット、テーブル、椅子がある。
王妃は、あっさりした白い服を着ていた。
王妃は威厳ある神々しい態度で、恭しくすすむ私を信頼し優しく迎えてくれた。

この短い時間で訴訟の書類を調査するには数週間かかる。
その為には、国民公会に頼むしかない。
王妃の答えはノン。
私は王妃を弁護するという事は、ルイ16世の未亡人、子供達の母親、そして義妹を弁護する事だと付け加えた。

王妃は、ようやく議会宛てに必要期間を要求する数行をしたためてくれた。
だが、請願書を宛てたフーキエ・タンヴィルは、それをしなかった。
翌日、公判が始まった。


こうして、王妃のフランスへの裏切り行為である証拠書類は運良く遅れてしまった。

そして、法廷で検事側の猿芝居(捏造)が始まる。

1793年9月3日
第1回目の尋問が16時~翌朝7時半まで休憩を含めて、15時間にも及んで行われた。


入廷するマリーアントワネット



1793年10月12日
18時から、非公開の予審尋問が開かれた。
内容は尋問というよりも告発に近いものであった。

裁判長が王妃に問いた事は以下の項目。

●日頃の浪費だけではなく、兄である皇帝レオポルト2世とフランスの利益にはならない関係を維持して、数百万リーヴルの送金をして、フランス財政を逼迫させた。

●フランス人民を騙す術を国王に指示して、国王の拒否権行使やヴァレンヌ逃亡をそそのかした。

●フランス国民の自由を破壊して、王政を復活させようとした。

●亡命した貴族と共謀して、国家の安全を脅かす計画を企てた。

●1792年『8月10日革命』時に人民に向けて発砲させた。

●タンプル塔で革命の敵となる者達と連絡を取っていた。

カ−ネ−ション事件に関与した。

これらに対して、頭の回転が良く臨機応変に対応出来る知性の良い王妃は、有罪となるような言動をしない様に巧みな供述を繰り返した。

しかし、日光から遮断されて投獄獄されていた王妃の肉体は追い込まれた。
37歳の王妃の美しかったブロンドの髪は、白髪に変わり果て、赤く充血した眼は焼け付くように痛み、唇と慢性的な下半身の酷い出血が見違える程に彼女を憔悴させた。

それでも、出廷した時は頭を起して、落着いた眼ざしを裁判官の方に向けていた。



1793年10月14日
午前8時、コンシェルジュリーの闇牢の扉が開く。
扉の向こうには、裁判所の法廷吏、憲兵隊士官ド・ビュスヌ中尉と数名の憲兵が警備する。
大法廷には、裁判長エルマン、検事フーキエ・タンヴィル、判事と陪審員達が入場して来た。

判事の顔ぶれは、元事務員、元医師、元弁護士、元書生、元警視のコフィナル、高等法院時代の弁護人でルイ15世の非嫡出子といわれるメール、元代議士のドリエージュ、最年長のドンゼ・ヴェルトゥイユ、他に代理人として元裕福な農夫フーコー、マリ・ジョゼフ・ラーヌ。
陪審員は、ロベスピエールの友人で外科医スーベルヴィエイユと印刷工ニコラ、元代訴人トゥーマン、競売物評価委員ベナール、元侯爵で立法議会の代議士アントネル、鬘師ガネー、木靴工デボワッソー、コーヒー店主クレティヤン、帽子屋バロン、音楽家リュミエール、指物師ドヴェーズ、元ブルボン連隊竜騎兵の指物師トランシャール、職業不明のフィエヴェ。

傍聴席は満員で裁判所の周囲にも群集が犇めいていた。

王妃は、擦り切れてしまった黒のドレスで固く糊付けした襞付きの白いリネンのキャップ。
ボネには喪の垂れ布、その下にはクレープ地を喪のベールとして付けて、国王ルイ16世の未亡人という誇りを示していた。

長い牢獄での生活で、かつての美貌は衰え、白髪となった王妃は37歳よりも老けていた。
心臓が弱ってしまい強心剤を手放せず、顔色は酷い出血で血の気を失い、視力が弱った目は炎症を起こしていた。

しかし、王妃は毅然とハプスブルク家マリア・テレジアの娘として、そしてフランス王妃としての誇りと威厳を持って入廷した。
そんな王妃に脅えや緊張は見られなかった。

王妃の側には、公選弁護人のショーヴォー=ラガルドとトロンソン・デュ・クードレーが控えた。

王妃の為に用意されたのは、木の肘掛け椅子で証人達の宣誓が終わるまで立ったままで、宣誓が終わった後に着席を許された。

名前を聞かれた王妃は、カペー未亡人という呼称は名乗らずに『マリー・アントワネット・ロレーヌ・ドートリッシュ』と答えた。

被告人席に着いた王妃の指は、ピアノを弾くように肘掛けの上で動き、書記のファブリシユスが起訴状を読んで王妃の裁判が開始された。

王妃の罪状は『敵との陰謀』『国家の安全に関わる陰謀』
王妃は、起訴状が朗読されるのを聞いても全く動じなかった。

41人の証人が次々と呼ばれて証言をした。
王妃の答えは明確で非の打ち所がなく、二人の弁護人も誠意を持って弁護した。

そして、この裁判で最も恥ずべき告発がエベールによりなされた。
それは、王妃と王妹エリザベ−トが王太子ルイ・シャルルに対して、性的虐待をしていたという虚偽告発だった。
エベールの告発で法廷中の人々は不快感を抱いた。

裁判長エルマンは、法廷内の雰囲気を感じ取って質問はせず、陪審員に促されて王妃に発言を求めた。

エベ−ルからの虚偽に対して、王妃は言われなき息子への誹謗を声を張り上げて、母親への冒涜と答える事で法廷中の全女性に身分を越えて、女性という連帯感を持たせて、支持と共感を得た。

第1回の裁判は15時間にも及び、審問が終了したのは23時。
王妃は疲れを見せず、姿勢を崩す事も無く審問を終えた。

傍聴席から『傲慢な女』という声が聞こえた為、王妃は弁護士ラガルドに「答弁に威厳を込めすぎたか」と尋ねると、弁護士は「そのままで良い」と答えた。

王妃の心中は、国外追放を希望していたが、革命裁判所はどんな手段を使ってでも、王妃を有罪にしなければならなかった。
何故なら、王妃の裁判は見せ掛けだけのものであって、既に王妃の運命と有罪判決は予め決められていたからである。

1793年10月15日
午前8時、第2回目の公判が始まった。
前日に続いて、次々と証人が呼ばれても王妃を告発する証人達は、何一つ証拠を挙げる事が出来ずにダラダラと公判は進んで行った。

王妃に罪が有るとすれば、対ヨーロッパ戦争においてフランスの情報を流した事くらいで、フランス王妃としては背信行為にあたった。
また、夫の王位と息子の王位継承権、何より自分と家族の生命が脅かされている時に実兄に助けを求めた事の物的証拠は、この時点では見つかっていなかった。

そして、あまりに熱意を込めて王妃を弁護したという罪状で弁護していた二人の弁護士は公判中に相次いで逮捕された。
弁護士の一人、トロンソン・デュ・クードレーは、王妃から二つの小さな金の指輪と彼女の一房の髪の毛を託されていたが、逮捕後に没収されてしまった。
この品はベルギーのリニーに住む、シトワイヤンのマリーまたはマレーという女性に渡すよう、王妃がクードレーに頼んだ物で渡して欲しい相手はジャルジェ夫人であった。

そして、朝8時から続いた公判は終結に向かい証言が終了して、陪審員が審理に入ったのは午前3時で最後まで王妃は毅然とした態度を崩す事はなかった。

1793年10月16日
午前4時、陪審員達は再び法廷に呼び戻されて、いよいよ王妃マリ−・アントワネットへの判決が言い渡される時を向えた。

法廷は水を打ったような静けさに包まれて、協議の結果を待っていた。
陪審員が協議に入ったのは1時間前で協議する前から、既に判決は有罪と決まっていた。
王妃を無罪にすれば自分達の命が危なくなり、時代は元フランス王妃(カペー未亡人)の首を求めていた。

法廷の隣室で判決を待つ王妃は、証人の中の誰一人として明確な証拠を出せなかった事を思い、希望を持っていたともいわれている。

時代は、まだ恐怖政治が始まったばかりの時期で国外追放以上の判決が下るとは、王妃だけでなく傍聴人や証人も考えていなかった。

法廷内のざわめきと裁判長エルマンの声が僅かに聞こえる部屋で、憲兵隊士官ド・ビュスヌ中尉は王妃に所望されてコップに1杯の水を持って行く。
そして、1人の法廷吏が王妃を呼びに来て、王妃は法廷内の壇上にある被告人席に戻った。

続いて、憲兵に囲まれて裁判中に勾留されてしまった弁護士ショーヴォー=ラガルドとトロンソン・ド・クードレーが入場した。

そして、法廷内の重い沈黙中、裁判長エルマンの声が響き渡った。

『マリー・アントワネット。
これから、陪審員の答申を言い渡す』


続いて、検事キエ・ダンヴィルが告げた。

『被告人は死刑に処せられる』

王妃に死刑の判決が下って即日、正午の執行と決定した。

陪審員の表決は有罪で検事フーキエ・タンヴィルが死刑を唱えて、全員一致で賛成された。

その間、王妃は終始、落ち着いた様子で一切の感情も見せなかった。

エルマンは、王妃に『何か申し立てがあるか?』と尋ねると、王妃は無言で首を振った。
エルマンは、弁護士にも同じ事を尋ねると、弁護士も答申を肯定して職務の終了を申し述べた。

エルマンは、検事の論告と陪審員の答申を正当と認めて、法律に基づいて王妃に死刑の判決を下した。
また、フランス国内の王妃の財産の没収、刑の執行と告示についても述べた。

死刑判決を受けても王妃は沈黙の中、何にも誰にも目を向けずに無感動で不安も怒りも示さなかった。
ただ、法廷を後にする時に憲兵の手を借りて言った。

『もう、何も見えなくて、歩く事も出来ません』

ド・ビュスヌ中尉は、法廷を出る王妃に脱帽して付き添った。
視力の弱った王妃が階段で躓くと彼は腕を貸して、王妃を助けながら階段を下りた。
王妃は気温5度、澄み渡る明け方の空の下、独房へと戻って行った。

こうして、見せ掛けだけの王妃の裁判は、死刑判決で幕を閉じた。

あとは、ただフランス王妃として、誇り高く、立派に死ぬ事のみがマリ−・アントワネットに残された。








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