王妃の救出計画
【喪服を纏う王妃】

王権が停止となった後、幽閉された王室一家を救出しようと王党派によって幾つか脱出計画が練られた。

この時期は、些細な言動挙動一つで文字通り、命取りになるような恐怖政治下にあった。

そんな中、南仏ベアルン地方出身の旧家の出とも言われて、軍隊に入る為の貴族称号を手に入れただけのガスコーニュ地方の次男坊とも言われていた名の知られていない貴族で資産家のジャン・ピエール・バッツ男爵。


ジャン・バッツ男爵

バッツ男爵は、革命が起こるまけでの平穏な時代にあっては、表に出て来る事もなく、女優を情婦に囲って、成金男らしい無為徒食の日々を送っていた。
ところが、一度、革命が起こるやバッツ男爵は、表舞台に飛び出して来た。

先ずは、国王ルイ16世一家をタンプル塔から救出しようと暗躍するも失敗。
すると今度は、処刑される国王を救出しようと革命広場へと向かう国王を土壇場で救い、暫くの間フランスで匿い、その後、国外亡命を企てた。

バッツ男爵は、剣を振りかざしながら、「国王を救おう!」と叫び続け、群集が大挙して自分に続いて来る事を願っていたが、彼の声は掻き消されて、危険を感じたバッツ男爵は、群集に紛れ込んで刑場の柵を強行突破できなかったが、逃げおうせたという大胆な事をやってのけた。

バッツ男爵は、蓄えた全資金を革命政府の要人の買収に費やし、その狂気じみた冒険家の才覚の全てを王室一家の救助に充てた。

バッツ男爵が買収した政府高官の中にミショニという人物がいた。
ミショニは、国王一家が幽閉されていたタンプル塔の監獄総監(警察理事官)で幹部要職人。
ミショニは、バッツ男爵の提供する金銭が目当てで、自らの意志でバッツ男爵の陰謀に積極的に加担した1人。

ここまで来ると革命政府は、人民主義とか、王政否定の理念すら上辺のみの腐敗しきった無思想な革命家の集団のように見えてしまうが、少なくとも反革命や王党派などという危険分子を徹底的に掃討して、ギロチンの極刑をもって、片っ端から捕縛、処刑を展開していた恐怖政治であった事は動かぬ事実。

こうした背景をみれば、こういう大胆不敵な革命政府にとっての裏切者達は、一体、何を考えていたのか?
自らも革命によって、身分や収入や名誉という恩恵に浴した者達なのに命までも捨てるような一か八かの計画に身を投じていた。

ともかく、このバッツ男爵はミショニと組んで救出計画が敢行される。
既にバッツ男爵は、『フォルゲ』という偽名で国民軍兵士に登録されて、タンプルの牢獄警備隊員の任に就き、数人の男らを買収しまくって、警備隊に加えていた。

そして監獄総監のミショニは、難なく王妃らに国民軍の軍服を手渡していた。

計画予定は、当日、国民軍の服を纏った王妃らを牢獄の警備隊に紛れ込ませて、王子ルイ・シャルルは、一隊の内側に包み込んで堂々と牢獄から脱出するというものだった。

その夜、牢番の男のもとに『今夜、ミショニ理事官が諸君を裏切るぞ』という謎の紙片が届けらた。
牢番の男は、疑う事なく大騒ぎを始めて、王妃の救出劇は未遂に終わって、数々の陰謀の1つに加えられた。

バッツ男爵ら一味は、夜闇の中に姿をくらました。
翌日、事情聴取を受けたミショニ理事官は、『牢番の馬鹿が誰かに一杯、喰わされたのさ』と笑い飛ばして、この計画は歴史から抹殺された。

そして、もう一人、王妃を救出しようとしていた革命家の男がいた。
革命以前は、楽譜商をしていたフランソワ・アドリアン・トゥーラン。
トゥーランは、王宮に民衆が押し寄せて近衛スイス部を虐殺した『8月10日』事件の参加者で熱烈な革命党員。
亡命者財産管理局長、次いでコミューン委員を務める革命政府の要人でタンプル塔の警護を提案した委員の一人だった。

ところが、トゥーランは国王一家の監視の任に就ている間に熱烈な王党派に豹変してしまう。

王妃マリーアントワネットの魅惑に心惹かれたのか、突然、好意的な態度と深い同情と奉仕に順した。
王妃の魅力と権威によって、革命党員が一命を投げ打つようになって、同僚の一人と共に脱獄準備をした。
この革命の闘士トゥーランは、処刑間近で家族から隔離されていた国王ルイ16世の伝言を新聞の売り子を買収して、王妃に伝えたり、国王が形見として王妃の元へ人を介して渡そうとして失敗、当局に没収された時も指輪を盗み出してまでして、王妃の手元へ届けたりと細々と王妃への奉仕に貢献していた。

そして国王が処刑された翌日、トゥーランは王妃を救出して、イギリスへ逃がす脱獄計画を固めた。

王妃にしてみれば、革命政府幹部のトゥーランからの計画を打ち明けられる事も予想外な出来事で信じ難いものであった。

そこで王妃は、慎重に亡きルイ16世の命により、亡命を禁止されて、パリに潜伏していた王党派のジャルジェイ将軍の助力と連携を提案して、直筆の手紙をトゥ−ランに持参させて、ジャルジェイ将軍の元へと派遣した。

そこで今一人、金によって市の役人ルピートルを味方に就けて、計画は実行へと進んでいく。
役人達のタンプル塔の囚人巡回業務は大変に面倒臭がれており、代役は歓迎されていた。
そこで、トゥーランとルピートルは積極的に気の良い友人となって、仲間達の夜勤交代をして、王妃一家の変装用の服の手配などしていた。

救出計画は、夜警の際に服を2枚に重ね着して、王妃と王妹 エリザベ−トを市の役人に変装。
王女 マリ−・テレ−ズはケンケ灯の点灯係の助手ロワイヤル夫人に変装。
ルイ・シャルルは洗濯物運搬の籠中に入れて運び出す。
タンプル塔の牢獄を出てしまえれば、あとは楽観できた。
ドーヴァ海峡までの馬の手配、脱出が発覚してから追っ手が出発するまでの時間的な計算も緻密になされて、脱獄の日取りは3月8日と決められた。

旅券の偽造もルピートルは、旅券関係の委員長をしていた為、『本物』の偽物が発行できた。
これによって、求出作戦は極めて有利なものだった。
しかし、この旅券の作成にかなりの時間が消費されて、この間に予想外の障害が発生した。
それは、計画前日の7日にパリで前線の司令官だったデュムーリエが敵軍と結託して、パリへ攻撃をしかけてくる暴動事件が勃発した。
デュムーリエが部下の抵抗に遭い逃亡して、この暴動事件は未遂に終わった。

しかし、国境に戒厳令が敷かれてしまい、タンプル搭の警戒態勢も厳しくなって、脱獄計画の実行が極めて危険視された。

そこで、ジャルジェイ将軍は、王妃1人だけの脱出計画に変更すべきと申し出た。
しかし、王妃は子供(とりわけ若き国王ルイ・シャルル)に対して、報復が加えられる事を惧れて、頑なに拒絶して計画は全面的に中止となった。

その後、トゥーランは密告によって捕らわれたが脱出。
しかし、再び逃亡先で再逮捕された後、ギロチンで処刑された。

王妃の身柄を救う為に動いていたのは、潜伏する王党派だけではなく、外国の軍隊も自国の平安の為に革命政府を叩き潰して、王妃や王子を救出しようと軍事行動をとっていた。

王妃の恋人フェルセン伯爵も自国スウェーデンのグスタフ国王を動かして、対仏同盟軍の首脳らとの連携をとっていた。

フェルセンは国際舞台で今度は、王妃の救出作戦を再開していた。
プロイセン・オーストリア同盟軍の司令官ブラウンシュヴァイク公爵は、コブレンツにおいて有名な宣言(マニフェスト)をフランス人民に発した。
『フランス国王、王妃に対して、侮辱的な言動があり、いささかでも暴力行為がなされた場合、パリを軍事制裁により、焦土と化す』

しかし、この宣言は逆効果となって、外国の圧力に奮起したパリでは、宣言に応ずるようにルイ16世の首を落として、徹底抗戦の意思表示とした。

残るは、王妃の命と王子の命だが、パリへの要衝となっていたヴァランシエンヌがヨーク公率いるイギリス・ハノーヴァー連合軍によって、陥落せしめられると革命政府は浮き足立った。

王妃救出に超人的な情熱を注ぐフェルセン伯は、この機に乗じてパリへ総攻撃をかけて、王妃の命と引き換えに有利な講和条約を申し出る計画を同盟軍に提案する。
これは、的を射た提案でヴァランシエンヌの敗北で危機感の高まっていた革命政府側は、王妃の命という切り札を利用して、有利な講和を締結するという腹づもりでいた。
フェルセンの案が採択されれば、革命政府はその条件を呑むつもりだった。

ところが、革命政府が王妃の処刑が切迫している事を同盟軍側に信じ込ませて、その命と引き換えの講和条約の申し出を促そうと画策する。
すると、今度は同盟軍側が二の足を踏んだ。
つまり、先のブラウンシュヴァイクのマニフェストによって、国王ルイ16世の処刑を早まらせてしまった失敗から、これは下手に相手を刺激すると二の舞いの結果になると慎重策をとったのだった。

つまり、フェルセンの提案を退けて、攻撃の延期を決定した。
フェルセンは茫然として、妹のソフィーに『もう、僕は死んだも同然だ』と手紙に書き記している。

こうして陰謀によらず、列強を巻き込んでの大規模な軍事行動によって、王妃を救出するというフェルセンの二度目の計画も終に頓挫した。

そうするうちに革命政府は、戦局の挽回を図り、王妃を本当に処刑裁判の場に引きずり出す。
そして、王妃マリー・アントワネットは『ギロチンの控え間』と呼ばれるコンシェルジュリー牢獄へと移送された。

コンシェルジュリー牢獄への護送任務には、4人の警察理事官が就いていた。

かつて、タンプル搭の庭園への潜り戸で頭をぶつけてしまった王妃に『痛くはありませんでしたか?』と、優しく声を掛けた男がいた。
バッツ男爵と共謀して、国王一家をタンプル塔から救出しようとしたミショニだった。
ミショニの正式な肩書は、監獄部門を掌握せる警察理事官。
そんな権力者が王党派顔負けの熱烈な王妃の味方になっていた。

ここまで事態が切迫してしまった段階で再び、ルージュヴィル士爵アレクサンドルと王妃を引き会わせたのもミショニだった。

ルージュヴィル士爵は、暴徒が王宮に乱入した折り、王家の人々を守ろうと馳せ参じた勤王派貴族『懐剣騎士団』の一員。
札付きの王党員であり、情婦の密告で一度、投獄された事もある。
『懐剣騎士団』だった貴族という告発状は、そのままギロチン決定を意味する。
ところが、警察理事官のミショニが暗躍して、この危険人物を無罪放免にした。

そして、恐怖政治下のパリに潜伏する、この大胆不敵なルージュヴィルとミショニが組んで王妃の救出作戦を開始する。

そして、ある日、コンシェルジュリーの地下牢の王妃のもとにルージュヴィル士爵が忽然と現われた。
番兵が控えているので会話も出来ない。
そこで、士爵は素早く上着の裏に差していたカーネーションを床に投げ落とした。

王妃は、かつて王宮での恐怖の夜、命がけで自分為を守ろうとしてくれた貴族の1人である事を見ており、こんな絶体絶命の地下牢に突然、勤王の騎士だった男が現われて、王妃は思わず目に涙を浮かべてしまった。

感激の余りカーネーションに気付かぬ王妃に士爵は、小声で『カーネーションを拾って下さい』とだけ囁いて、牢を出て行った。

牢獄には、多くの物見高い見学者が金を払って、王妃を見に出入りしていた。
その金が管理官の副収入っになっていた番兵からすれば、このルージュヴィル士爵も、そんな見物人の中の1人に過ぎなかった。

しかし、カーネーションの中には脱獄計画の短信が潜んでいて、その日から救出計画は着々と進行して行く事になる。

当日の夜23時頃、ミショニ理事官と変装したルージュヴィルがコンシェルジュリー牢獄に現われた。
市当局の命令によって、「これから、囚人(王妃)をタンプル搭に移送する」と告げる。
相手は本物の警察理事官でコンシェルジュリー側も疑う訳もない。

しかし、中庭に待機している護送馬車は、そのまま王妃を共謀者ジャルジェ夫人の元へ、そして手配されたルートでドイツへと逃亡される計画だった。

王妃を連行した陰謀家達は、最後の通りに面した門まで辿り着けば、その向こう側には自由があった。

既に買収されていた筈の門番が土壇際で裏切った。
『ここは通しません。部屋に戻って下さい!』と門番は叫んだ。

ルージュヴィルは、仲間に計画の失敗を告げると何事もなかったように夜闇の中に消えて行った。
一方、ミショニは、何故か居残って、下手な弁論も空しく逮捕されてギロチンで処刑される。

ルージュヴィルは、作戦失敗後、その首に賞金の架かったルージュヴィルは、とりあえず身を潜めた漆喰採取場で黙々とペンを走らせていた。
題して『獄内におられる王妃にカーネーションを献上せる本人の筆になる、パリ市民が彼らの王妃に対して、なせる犯罪の数々』というパンフレット。

ルージュヴィルは、それを書き終えると国民公会の事務局と裁判所の事務所に白昼堂々、自ら届けに行く。
もはや狂気の沙汰。

それでもバッツ男爵同様、ルージュヴィルは革命期を生き延びた後、ナポレオンのモスクワ遠征の際にロシア士官と通じていたとの嫌疑で逮捕、処刑されて果てた。

かくして、王妃マリーアントワネットの救出作戦は、ことごとく失敗に終わって、1793年10月16日、王妃はレヴォリュシヨン広場(現在のコンコルド広場)に設置されたギロチン台へと護送されて行く。

そして、此処で本当に最後のマリーアントワネットの救出計画が敢行されようとしていた。

レース女工カトリーヌ・ユルゴンが、彼女を取り巻く靴磨きや髪結い師らに何やら叫んでいる。
これらパリの最下層の連中は、革命期、最も過激な革命家集団を形成しており、国王に罵声を浴びせ、貴族や近衛兵の首を切り落とし、乱舞していた恐ろしく、凶暴な階層である。

どうせ『このオーストリアの雌狐め!』とか『淫売女をギロチンに』とか叫んでいるのだろう…と思いきや、彼女が野卑な下町言葉で仲間に呼び掛けている内容は、全く違っていた。

『お気の毒な王妃を救い出すには、一瞬だって無駄にしてはいられないよ。
味方を呼び集めて、引き立てられて行く途中で囚人をさらうように何がなんでも命令を下さなくちゃいけないよ!』

このレース女工ユルゴンに率いられた一団は、まさにパリの下層民達の集まりで、既に1500名の地下組織が形成されていた。

本当は彼女らは、コンシェルジュリー牢獄に夜襲をかける手筈であった。
昼間の内に界隈の街路灯のランプに火を点して、夜間に油が切れて真っ暗になったところで大挙して、牢獄を襲撃、王妃の身を救い出すという計画で下層の女達は過激だった。

これでは、かつて下層民が王宮を襲撃して、王妃らの命を狙った時と全く逆で、彼女達は、今度は命賭けで王妃の命を救おうと計画していた。

しかし、警察当局は密偵を組織に紛れ込ませて、策を弄して作戦決行を延期させて、仕舞いには王妃の処刑当日まで引き伸ばす事に成功していた。

だが『フル二エのかみさん』と呼ばれていたカトリーヌ・ユルゴンは、此処に至っても王妃の身柄を奪取する目的を放棄しなかった。
かつて、王宮に侍女として王妃の側近くに仕えていた女達までが『オーストリア女に死刑を!』と絶叫しているというのにユルゴン達は、黙々と計画行動を開始した。

もしも、ここで1500人の武装集団が命賭けの襲撃を王妃が乗った護送車に仕掛けたら…

警察は組織壊滅に密偵を暗躍させており、それが奏功したのか、現場に集合した組織メンバーは80名で既に骨抜きにされていた。

彼女らの目の前を王妃の護送車が通過して行き、そして彼女らは次々と捕縛され引き立てられて行った。

こうして、全てのマリーアントワネットの救出計画は終わった。

彼女の宿命を前には、あらゆる情熱も努力も勇気も及ばず、信じられぬ成功も信じられぬ失敗によって費え去った。

12時15分
ギロチンの刃が落ちて、誰も王妃を救う事は出来なかった…。






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