ヴァレンヌ逃亡事件

フランス革命の先行きを憂慮していた立憲王政派のミラボーは、『国王がパリを脱出し、急進的なパリ民衆の影響下にある国民議会を解散して、地方の支持を背景にして、国王の直接統治を行うべきである』と進言していた。

しかしルイ16世は、『王たる者は、国民から逃げ出すものではない』と頑なに反対して実現しないでいた。

これには、国王が『ヴェルサイユ行進』以来、国王がその守護者となる事を誓ったラファイエット将軍に信頼を寄せていた事も一因で、彼はミラボーの政敵であった。

しかし、革命の進展と共にラファイエットの権力は日増しに弱まって、約束が反故にされ、改革によって様々な権限が奪われて行く事に国王は不満を強めていった。



1790年10月20日
大臣非難決議と新大臣任命に関するラファイエットの表裏ある態度に国王は激怒して、『憲法に規定された自由任免権すら侵された』として、彼を見限り、思い切って反革命に転じる事にした。
国王は、直ぐに王党派であるパミエル・ダグー司教とブルトゥイユ男爵を呼び寄せて、国王の代理として、諸外国と交渉する全権を密かに与えた。

1790年12月27日
聖職者に革命の諸法への宣誓を強制する法律に署名を強いられた際には、不本意な国王は『こんな有様でフランス王として残るなら、メッス市の王になったほうがマシだ。
だが、もうじき、これも終わる』
と述べて、何らかの計画がある事を暗に漏らした。

国王は、王弟アルトワ伯や亡命貴族が行っていた地方での反乱蜂起の扇動などには賛成せず、彼らの愚かさを非難した。
一方でブルトゥイユ男爵が必死に諸外国を説得に回って、結成を目指していた神聖王政連盟に対しては密かに期待していた。

しかし、具体的に支援を約束したのは王権神授説を信じるスウェーデン王グスタフ3世だけで、イギリスは植民地の譲渡などを条件に中立を約束したが、ローマ教皇の宗教上の支援は余り効果がなかった。

特に痛手であったのは、王妃マリー・アントワネットの実兄である神聖ローマ皇帝レオポルド2世がポーランドやオスマン帝国の情勢を鑑みて、計画に懐疑的態度を取った事であった。
彼は口実をつけて、交渉を引き延ばし無駄に8ヶ月間が経過した為、12月にはパリの革命派新聞が国王側の不穏な陰謀の気配を嗅ぎつけた。

1791年1月30日
デュボワ・クランセが国王の計画をジャコンバン派に暴露した事で『国王一家が逃亡する』という噂が流れて、議会は国境の警備を強化して、王族の監視も強化した。

テュイルリー宮殿の護衛責任者ラファイエットも警戒注意を受けて、国王に真偽を問うと国王は否定した。

しかし、国王は反カトリック的な法律が出来た事もあるが、挑発するかのように先だって、ルイ15世の娘で叔母にあたるアデライードとヴィクトワール王女を出国させてローマに行かせた。
しかし、離国事件は直ぐに問題となって王女らは途中で二度も捕まった。
亡命禁止法を議会で審議していた時期の出来事であったが、ミラボーの人権を擁護する主張によって、この法案は退けられて議会は、特別命令を出して出国を許した。

しかし、一方で議会は『王の逃亡は退位とみなす』と宣言して、警告し、王妃が駐仏オーストリア大使メルシー・アルジェントー伯爵と交わしていた書簡を調査し、その不穏当な内容を問題視して、摂政職から女性を排除する法案を可決させた。

1791年4月2日
国王が唯一、信頼していたミラボーが急死する。
国王は面従腹背の態度を強めて、後任者を誰も信頼せず、王妃の国王に対する発言力が増した。

三頭派やバルナーヴがブルジョワ的政策を進めて議会と民衆との軋轢が顕著になると、国王は反革命のチャンスであると思ったがレオポルド2世との交渉は全く進んでいなかった。

4月18日
国王一家は、復活祭のミサを行う為にサンクルー宮殿へ行幸しようとした時、民衆は国王が逃亡するものと思い込んでテュイルリー宮殿の門を人垣で塞いで馬車の行く手を妨害した。
ラファイエットは、民衆を解散させる事が出来ずに国王一家を守るべき国民衛兵隊も行幸が中止と発表されるまで妨害を止めなかった。

『これで私たちが自由でない事は、認めざる得ないでしょう』

王妃の言葉に国王も屈辱と耐えがたい思いで、革命の先行きと急速化に不安を感じて、パリ脱出計画を真剣に考えるようになった。

そして、脱出計画に積極的だったのは王妃とフェルセン伯爵で、彼の進言と助言の主導の下に水面下で緻密な計画が立てられていった。

王妃は、母国オーストリアへ亡命する事を企てていた。
当時はフランス国外へ亡命する貴族は多く、亡命そのものを罰する法もなかった事から、変装によって見せ掛ける事は可能であった。

王妃は、メルシー大使を介して秘密書簡で本国と連絡を取って、亡命が成功した曉には、実家はもとより血族のいる諸外国の武力による手助けを得て、革命を鎮圧しようと考えていた。

しかし、オーストリアの兄レオポルド2世は、国王が申し出た1500万リーブルの借款を断って、渋々、軍隊を送る条件として『国王一家がパリを脱出した後に憲法を否定する声明文を発しなければならない』とした。
この為、国王は『パリ逃亡の際の国王の宣言』を作成して、成功したら発表する予定であった。

これは、パリ脱出の経緯を説明するもので国民議会の憲法違反を非難する内容だった。

そして、逃走資金は銀行家から借金する事になった。
国王と王妃に忠誠を誓って、脱出計画の協力者は信頼していたブイエ将軍、王妃をフランス王太子妃にする為に勤めたショワズール公爵。
フェルセンに協力するのは、ショワズール大佐、王室技師ゴグラー、外国の諸侯。
しかし、数名の近衛士官を除けば、国内で活動していた王党派との連携は皆無であった。

国境地帯の軍を預かっていたブイエ侯爵は、重要な役割を果たす事となったが、このような問題に外国人のフェルセンが関与する事に当初より強い懸念を示したのは、彼が国王の臣下ですら、なかったからであった。



フェルセンは王妃の信頼に応えようと献身的に国王一家の逃亡費用として、現・日本円に換算して総額120億円以上を出資した。

また各地の王党派と連絡を取り合って、王妃の書いた全ての手紙を暗号に組み直し発送した。
亡命に使用するベルリン馬車、旅券の資金を提供したのは、フェルセンの愛人エレオノール・シュリヴァン(エレノア・サリヴァン)
彼女の愛人クロフォード卿も費用を出し、自分のパスポートまでも国王に渡した。
エレオノールは『ド・コルフ男爵夫人』と名乗って、旅支度の調達をした。
逃亡時では、ポーリーヌ・ド・トゥルゼル公爵夫人が(コルフ夫人)と名乗る。

また、周囲の疑惑を反らす為に国王と王妃は別行動にして、逃亡用の馬車も軽くて足の速い馬車を勧めた。
しかし、不安を抱くフェルセンに王妃は、全員が乗れる広くて豪奢なベルリン馬車を主張した。
結果、王妃に振り回されて馬車は、8頭立てベルリン型の大型四輪馬車を新品で特注した。

更にドレスなど新調した事で脱出計画は、当初の予定より、1ヶ月以上も遅れてしまった。

また王妃の主張する亡命というアイディア自体にも難があった。
実行役となるブイエ将軍は、反逆罪に問われる可能性が高かった事から、国王の署名入りの命令書を求めるなど抵抗した。
国王も国外への逃亡という不名誉を恐れて、計画の変更を求めて、ルートをフランス領内のみを通過するものに変えた。
しかし、これはブイエ将軍が最初に提案した旅程よりも危険なものになった。

最終的な目的地は、フランス側の国境の町であるモンメイディの要塞に決まった。
ここに国外の亡命貴族軍を呼び寄せて合流する予定であった。

ベルギー国境に集結していたオーストリア軍の協力をあてにはしていたが、国王はあくまでも国内に留まる決意だった。

脱出計画は、6月19日の決行予定で全ての準備が整っていた。

しかし、間近になって王妃が『革命派』と睨んでいた侍女が案の定、バイイ市長に密告。
バイイ市長は公にせず、王妃に『密告があった』という事だけを告げた。

この為、19日を決行日とするべく準備をして来たが、密告した侍女が非番となる翌日の20日まで1日延期する事になった。

一方、ブイエ将軍は街道に配下の竜騎兵および猟騎兵部隊を配置して、警護させようと考えて準備をしていた。
しかし、彼らは王党派という訳ではなかったので、兵士達には任務の内容は知らせなかった。

指揮官ショワズールは、ただでさえ秘密の保持に苦慮するところであったが、このように予定が突然、変更になって部隊は、右往左往する事を強いられて、計画は実行前からズタズタになっていた。

1791年6月20日
月曜日の深夜、国王一家は、旅券に書かれた『ロシア貴族のコルフ侯爵』一行に成りすまして、午前0時にテュイルリー宮殿を出発する予定だった。

午前0時半、王女マリー・テレーズと王子ルイ・シャルルは、『仮面舞踏会に行きますよ』と言い含めらて、養育係のトゥルゼル公爵夫人と王妹エリザベートに連れられて宮殿を抜け出した。
その後、王妃も無事に脱出した。

しかし、国王は監視役であったラファイエットの予定外の長居によって、宮殿を脱出できた時には、午前1時を回っていた。

護衛を務める指揮官ショワズール公とゴグラーは、10時間前に猟騎兵を連れて既にパリを出ていた。

旅券に書かれた一行の人数は6人。

トゥルゼル公爵夫人⇒コルフ男爵夫人

王太子ルイ・シャルル⇒コルフ夫人の娘アグラエ

王女マリー・テレーズ⇒コルフ夫人の娘アメリ

王妹エリザベート⇒コルフ夫人の親戚ロザリー

ルイ16世⇒コルフ夫人の従事デュラン

マリー・アントワネット⇒養育係ロッシュ夫人

フェルセン⇒馬車の御者



一行は、近衛士官マルデンの手引きで幌付き2頭立ての馬車に乗って、誰にも止められる事なくテュイルリー宮殿を出発した。

まず、パリ市門サン・マルタンのクリシー街にあるサリヴァン夫人(フェルセンの愛人)の邸宅に到着した。
そこで用意していた大型の豪華なベルリン馬車に乗り換えて、更に2人の従者が車後に乗った。

ベルリン馬車をフェルセン自らが手綱を操って北へと向かう。
しかし、回り道した為に既に貴重な2時間を費やして、午前2時半を過ぎていた。

パリ郊外の東にあるボンディの森に到着して、8頭の新しい馬に繋ぎ換えた。
そこで、国王はフェルセンに対して、彼の王家への忠誠は認めてはいたが、以降の随行を拒否した。

フェルセンも王妃も言葉に出さずとも、此処での別れを望んではいなかった。
しかし、国王に逆らう事も出来ずにフェルセンは、ブリュッセルで再び国王一家に会う事を約束した。
この6月20日は、19年後のフェルセンにとって運命の日となる…。

そして、フェルセンは去り際に『さようなら!コルフ夫人!』と叫んで国王一家と別れた。

国王一家の馬車は、3人の特命を帯びた近衛兵に守られながら、東へと向かって行った。

銀食器、衣装箪笥、食料品、ワイン8樽、調理用暖炉2台などが積め込まれていた。
馬車は、パリから42km離れた田舎町(モー)に到着して、朝食を取った。

献立は、牛肉の蒸し煮、グリンピースと人参のゼリー寄せ。

多くの人に監視されて、緊張を強いられていたテュイルリー宮殿を離れて、呑気になった国王は、特別に用意した地図に自分達の経路を記入したり、馬車から降りて子供達と少し散歩したりした。

更に途中で車輪を柱にぶつけて2度、転倒して馬車の立て直しと馬具の修理に1時間以上の時間を費やして、シャロンという町に着いた時には、午後16時であった。

扮装していた国王一行は安心し切って、此処で優雅に食事をして、豪華な馬車と荷物を人々に見せびらかせて悠々と去って行った。

この為、一行の馬車がシャロンを出て、30分もすると「国王一家がシャロンを通過した」という噂が町中に広がった。

シャロンから12km先では、当初、午後14時半に待ち合わせを予定していたショワズール公の率いる最初の護衛部隊が待機していた。

しかし、宮殿脱出から、出発時間が遅れていた為に遭遇する事が出来なくなる。

午後17時、ショワズール公は40名の猟騎兵と共にシャロンの町の近くのポン・ド・ソルヴェール橋で長時間、待機をしていた。
しかし、幾ら待てども国王一家の馬車は到着せず、何事かと訝る住民の目に晒されて段々と不安になって、「計画自体が失敗したのではないか…」と、判断して部隊を分散後退させた。

その後、国王一行がポン・ド・ソルヴェール橋に到着したが、ショワズール公の愚かな判断によって、擦れ違いとなった。

愕然とした国王は、次の小さな町サント・ムヌーで別の竜騎兵部隊が待っている予定だった為に更に2時間進んで遭遇する事に期待した。

しかし、サント・ムヌーでも、不審な部隊を警戒した地元の300名の武装した国民衛兵隊が集まって来た為、衝突を恐れた指揮官ダンドワン大尉は解散を命じた。

竜騎兵たちの多くは、市民と一緒に酔っぱらっていた為に此処でも、国王一家は護衛と合流する事が出来なかった。
しかし、ダンドワン大尉は、何とか国王の馬車を見つけて近寄って会釈した。

ところが運悪く、その光景を夕涼みに出ていた共和主義者の元近衛兵で宿駅長の息子ジャン・バプティスト・ドルーエ(後に国民公会議員になる)が目撃していた。


(ドル−エ)
ドルーエは、ダンドワン大尉や竜騎兵たちが、馬車の中の従僕や侍女に恭しく挨拶するのを怪訝に思った。

そこにシャロンから『王室一家が通過した!』という噂が流れて来た為にドルーエは、地区役所に走って、書記からアッシニア紙幣を受け取ると印刷された国王の肖像を見て、一行の中にいたのが国王である事を見破った。


アッシニア紙幣

そして、ドルーエらは馬に乗ると国王一家の馬車を急いで追い駆けて、間道を抜けて先回りをした。
ドルーエはヴェルダンへ向かうつもりだった。
しかし国王一家の馬車は、この時、ヴァレンヌに向かっていて、この段階では、まだ運は国王一家にあった。

しかしドルーエトは、クレルモンという村で旅支度の大型馬車の旅人が御者に『ヴァレンヌへ行け』と、声を掛けているのを小耳に挟んだという男と会った。

この名もない男の証言によって、ドルーエはヴァレンヌへと方向転換して、後にヴァレンヌの小村で国王一家の馬車を引き止める事になる。

一方の国王一家は、ようやくクレルモン・エン・アルゴヌンの町で護衛の竜騎兵部隊と合流できた。
しかし、既に国王一家の逃亡は此処の町でもニュースになって、騒動になっていた。

町の当局者は、扮装している国王一行を怪しんだものの、コルフ侯爵夫人の旅券を持つ国王の馬車を止める権限がなかった為に通行許可を出した。
しかし、明らかに不審な部隊の随行の通行は禁止した。

クレルモン先のヴァレンヌでは、18歳のローラン大尉が部隊を率いて待機していた。
しかし、合流予定時刻を大幅に過ぎても国王一家が到着しない事から、部下達に午後22時半に召集命令を出して、仮眠許可を出していた。

しかし、酒を飲んで酔って眠り込んだ部下もいて、再び全員を揃える事は出来なかった。

午後23時半、クレルモンで護衛部隊と引き離された国王一家の馬車がヴァレンヌに到着。
しかし、ドルーエらが先に到着していて、大勢の群衆と共に待ち構えていた。

また旅の馬車の中に国王一家が乗っているという騒動で村には、近隣の住人らが大勢、押し駆けて来ていた。

ヴァレンヌの町では、ブイエ将軍の息子ら二人の連絡将校が待っている筈だったが、彼らは待ちくたびれて寝込んでいた。
橋の向こうでは、馬車の替え馬が準備されていて、此処で馬を替えればモンメイディまでは僅かな距離であった。

そして、ドルーエは権限の持たない警鐘を鳴らして、何としても国王一家の逃亡を阻止する為に既に橋にバリケードを作って封鎖していた。

この騒ぎに目を覚ましたブイエ将軍の息子は、国王一家の逃亡が発覚したと思って逃げ出した。

そして、夜の闇の中でドルーエが叫んで、国王一家の乗る馬車を制止させた。

『止まれ!!お前(御者)の乗せているのは国王だ!』

市長が不在の為に地元の検察官ソースが馬車に停止を命じて、通行証を調べた。
ソースは、このような重大な事柄の責任を取るのを躊躇していたが、傍らのドルーエが強く主張した。

『これは間違いなく、国王一家なのだから、通行させてはいけない!
引き留めないと反逆罪だぞ|』


町長は旅券をチェックして、通行許可を与えたが何気に『もう、旅を続けるには遅いから、一休みして行かれてはどうか?』と勧めた。

国王一家は、24時間の逃避行で疲れていて、馬車を群衆に包囲されて、身動きがとれなかった事もあって、国王は『暫くすれば、ブイエかショワズール公の部隊が助けに来るのではないか…』と、期待して町長の招待を受ける事にした。



国王一家の宿泊部屋として、ソースの食料品店の二階に部屋が設けられて、簡易ベッドと粗末な食事が出された。

興奮した群集の中には、家の中にズカズカと入って来て、王家の人々を見物していく無礼者もいた。
ただ1人、大御代(ルイ14世時代)の生まれだったソースの祖母だけが、王家の人々に対する村人らのあまりの非礼さと、無邪気に眠っている王女と王子らの手に接吻して、彼らの不運に落涙していた。

夜半になって、ショワズール公が猟騎兵を連れて、息を切らせて到着。
そして、群衆を掻き分けて食料品店の二階に駆け上がって行った。

国王一家の長い夜が明けると、既に村中の民衆がソースの家の回りに集まって来ていた。

テュイルリー宮殿では、従僕が国王の寝室や王妃と子供部屋に誰も居ない事を発見して、国王一家の逃亡が発覚。
パリ中に警鐘が鳴り渡った。

『国王は絶対に逃亡しない!』と、言い張っていたラファイエットは、『国王は誘拐されたのだ!』と言い出した。

バルナーヴやラメットらの立憲派は、ラファイエットの説に賛同したがジャコンバン派では、ダントンとロベスピエールがラファイエットの責任を追及した。

民衆の半分は、以前から噂されていた国王の逃亡に差ほど驚きはしていなかった。
その一方で、『国王がいなくなったら、太陽が昇らなくなるだろう』と、不安に怯える民衆もいた。

ある民衆は、国王の裏切りに自制心を失って、『国王』の名を付けた商店や旅館の看板を取り壊したりした。

そして、国民議会は国王の居場所が判らなかった為にフランス各地に使者を派遣して、即時、国王一家の『パリへの帰還・議決書』を持たせた。

そして、国王の足跡を訪ね当てた2人の使者が、国民議会からのパリへの帰還議決書を持って、ヴァレンヌに到着。

1人は、国民議会の使者でラファイエットの国民衛兵隊/副官中尉ロメーフ。
ロメーフは、テュイルリー宮殿にいる時から、国王一家と言葉を交わす事もあって、王妃はロメーフに好感を持っていた。

実は、ロメーフには『出来れば、国王一家を逃亡させたい』という密かな願いがあって、足跡を捕らえてからも出来るだけ、遅足でヴァレンヌに行こうとしていた。
しかし、同行したバイヨンは革命に非常に熱心で、とにかく国王一家に追い着こうと必死であった。

ロメーフは、国民議会からの要求書を震えながら、王妃に渡すと受け取った王妃もロメーフを見て驚いた。

国王が帰還・決議書を読むと『王の権利は、国民議会によって停止されられた』という内容が書かれてあった。

『無礼、極まりない!』と王妃は激怒。
すると、『フランスには、もはや王はいない…』と、国王は呟いた。

逃亡劇が露見したが、国王は更に時間稼ぎをして、ブイエ将軍の救援を待とうと試みて、『疲れているのでパリに立つまで、2~3時間の休息が欲しい』と言った。

ロメーフも《ブイエ将軍率いる、軍隊が近くまで来ているに違いない…》と推測して、軍隊を待つべき、出来る限りの時間稼ぎをした。
しかし、バイヨンが拒否して『パリへ!パリへ!』と、群衆を煽った。

群衆の怒声と熱気に恐れをなした町長や町議員、商店主が出立を懇願して、国王は終に観念し、仕方なく車中の人となって、王妃は屈辱に唇を噛みしめていた。

国王一家は、6000人の武装市民と国民衛兵に囲まれながら、パリへと帰還する為にヴァレンヌを出発。

その後、僅か20分と経たずにブイエ将軍を指揮官とする騎兵中隊、ロワイヤル、アルマン連隊がヴァレンヌの町の手前にあるエール川の川岸まで来た所で国王が既に屈服、帰還したと知らされた。
一行は、そのまま撤退引き返して、国境を越えて亡命した。



国王一家のパリ脱出から、ヴァレンヌまでの逃亡劇は僅か24時間で終わった。
そして、パリに帰還するまでに3日を要した。
その長い間、国王一家は屈辱を味わい続ける。

国王一家は、着替えも一睡も出来ずに太陽が馬車の屋根を焼け尽くすように直射して、大気からは乾いた埃が舞い上がり、次第に増えて行く民衆の罵詈雑言を浴びた。

しかも宿駅ごとに町長が出て来ては、国王に挨拶をしたがり、その度に国王は『世は、フランスを去るつもりなどなかった』と答え伝えた。

1791年6月25日
議会を代表する護衛として、バルナーヴ、ペティヨン、モブールの3人の議員が帰還途中で加わっていた。
パリへの道中の各地に『国王に礼を尽くすものは撲殺。
国王に非難を加える者は縛り首』
との警告ビラが貼られていた。

シャロン近くの領主ダンピエル伯爵が国王一家の乗った馬車に近付いて、表敬の挨拶をした時に怒った民衆に惨殺された。

馬車がパリのシャロンに到着すると、石の凱旋門の前で国王一家を待つ民衆で埋め尽くされていた。
この凱旋門は、マリーアントワネットがガラス張りの馬車に乗って、オーストリアから輿入れして来た時に建てた。
その時に浴びた民衆からの歓呼の声が罵声に変わっていた。

夜19時、国王一家がテュイルリー宮殿に連れ戻されて、着替えて食事をして眠る事が出来た。

以後、国王は『民衆にとっては、裏切り者、革命にとっては玩具』となって、この逃亡事件以来、王室一家は本物の囚人と化し、立憲君主制度などという温和な政治形態は崩壊して、革命は過激化して行く。

一方で同じ日に逃亡した王弟のプロヴァンス伯夫妻は、同じ頃には無事にベルギーに到達していた。
プロヴァンス伯は、6月20日の夜に会ったのを最後に国王との今生の別れとなった。
そして、プロヴァンス伯は、2年後の国王の死と王妃を摂政職から排除する法律によって、自動的にフランスの摂政となる。

(ルイ16世の日記)
6月21日(火)
真夜中、パリを出発。
夜11時、アルゴンのヴァレンヌに到着。捕まってしまう。

6月22日(水)
ヴァレンヌを朝の5時か6時に出発。
サン・ムヌールで昼食。
10時にシャロンに着き、元の地方長官の館で眠る。

6月23日(木)
出発を急ぐ為、11時半にミサを中断。
シャロンで昼食。エベルネで夕食。
ビュイッソンの河の近くで国民議会の代表者に会う。
11時半、ドルマンに到着。そこで夕食。
安楽椅子で3時間眠る。

6月24日(金)
7時半にドルマン出発。
フェルテ・スー・ジュアールで夕食。
11時、モーに到着。司教館で夜食を取って寝る。

6月25日(土)
6時半にモーを出発。
途中止まらず、8時パリに着く。

6月26日(日)
何もなし。ギャラリーでミサ。
国民議会委員達の会議。

6月28日
生の牛乳を飲む。

逃亡で国王一家が捕らえられた後、国王一家は厳しい監視下にあった。
そして、マリー・アントワネットにとって、フェルセンと通信を取る事は非常に難しかった。

1791年6月27日
フェルセンがマリー・アントワネットに手紙を書く。

1791年6月28日
マリー・アントワネットの方もフェルセンに無事を知らせる数行の短い手紙を送る。

『愛していると申し上げるのがやっとです。
その時間もない程、私は大丈夫です。
どうか、心配しないで下さい。
あなたもご無事でありますように…。
手紙は、暗号にして郵便で送って下さい。
宛名は、ド・ブラウン氏で第2の封筒をド・グージュノー氏宛にして下さい。
宛名は侍従に書かせて下さい。
私が手紙が書けそうだったら、誰宛にすれば良いか教えて下さい。
それなしでは、生きて行けません。
さようなら(アデュー)、誰よりも愛され、愛した方。
心を込めて抱擁いたします』


1791年6月29日
『私は生きています。ああ、どんなに貴方の事が心配だった事でしょう。
そして、私達の情報が無い事に苦しんでいらっしゃるに違いない貴方をどんなにお気の毒に思った事でしょう。
返事は書かないで下さい。
私達、全員を危険に晒す事になりますから。
何よりも、どんな事があっても、こちらに決して戻らないで下さい。
貴方が私達の脱出を手助けした事は知られています。
こちらにいらっしゃると全てを失ってしまいます。
私達は1日中、監視されています。
私は大丈夫です。私の為に危険を冒さないで下さい。
私には、何も起りません。
国民議会は寛大さを示しています。
さようなら。これ以上書く事が出来ません…』


1791年6月30日
フェルセンからマリー・アントワネットへ。
『国王陛下が貴女のお側にいらっしゃいます。
明日、私はブリュッセルに行きます。
そこから、ウィーンに向かい、諸国との同盟を計ります。
そして、ブリュッセルに戻ります。
私は大丈夫です。
私の命は全て貴女に捧げています。
貴女の代理で、この計画を執り行う事をお望みかどうか、お知らせ下さい』


この後,フェルセンは国王・王妃とスウェーデン国王、外国宮廷の仲介役となって、フランス王政支援の為に奔走する。

1791~1792年の間,マリー・アントワネットとフェルセンとの間の手紙は数十通が残されているが,その全てが暗号または、見えないインク(※炙り出し)で書かれている。

1792年7月9日
『私達が離れ離れになってしまっては、もやは幸せはないでしょうから。さようなら。私を憐れんで下さい。
私を愛して下さい。
何よりも、私が何をするのを見ても、私から話を聞く前に私の事を判断しないで下さい。
私にとって、大切であり、大切に思うのを止められない人から、一瞬でも悪く思われるなら、死んでしまうでしょう』


マリー・アントワネットのフェルセンへの愛情がはっきりと示された。

監視されている状態で手紙のやり取りが出来たのは,信頼できる人に託すという他にビスコット(ラスク)の箱やお茶・チョコレートの包みに忍ばせたり,帽子や服の裏地に縫い込んだりして運ばれた。

また革命派の監視下にあって、1792年の春に急進派が王妃を拘束しようと企てていると聞いて、マリー・アントワネットが書類を焼いた事から,この頃までは、プライベートな書類まで検査される事はなかった。






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