1792年10月16日 王妃マリーアントワネットが革命裁判所で死刑判決を受けて、独房に戻って来たのは午前4時過ぎだった。 もう、王妃に生かされた時間は僅か数時間しか残されていなかった。 そして、看守に蝋燭2本、紙、ペンとインクを求めてタンプル塔にいる義妹エリザベート宛てに最後の遺書を書き綴った。 心優しいエリザベートは、亡命する機会があったにも関わらず、最後まで兄ルイ16世の家族と運命を共にして、間もなく母親をも失う姪マリー・テレ−ズと甥ルイ・シャルルのたった一人の守護者になってしまう。 エリザベート宛てに書かれたマリーアントワネットの遺書は、毅然として、慈愛に満ち溢れたものでマリーアントワネットは、サインをする習慣がなかった為、遺書に王妃のサインは記されてはいない。 涙で滲んだ遺書@ ※現パリ国立資料館/所蔵 涙で滲んだ遺書A 涙で滲んだ遺書B 王妃の書いた遺書は、王妃から看守長のボーに預けられた。 ボーは遺書を検事フーキエ・タンヴィルに提出。 その後、遺書は一時期、行方不明となった。 行方不明になった遺書は、革命指導者ロベスピエールの処刑後、革命政府が国民公会議員クルトワに命じて、サン・トノレ通りのロベスピエールの自宅を家宅捜査させた時に多くの書類を押収をした中から、王妃の遺書を見発した、 王妃は遺書と一緒に髪の毛と手袋も残していた。 その遺髪は、王妃が看守から借りたハサミで自ら切って、子供達に形見をとして残した遺髪。 クルトワは、ロベスピエール宅で見つけた書類を記録した後、政府に提出。 しかし、マリーアントワネットの遺書と遺品だけは誰にも語らずに21年間、自宅に隠し持っていた。 クルトワは、ルイ16世の処刑賛成に一票を投じた人物。 その彼が王妃の貴重な遺品を隠し持っていた有力な理由として、いつか遺品で一財産を築こうと目録んでいたという説。 皇帝ナポレオンの失脚後、王政復古で王弟プロヴァンス伯がルイ18世となった時世(1816年)に革命時の王家に関する調査が行なわれた際、クルトワ邸の家宅捜査も行なわれて、隠し持っていた王妃の遺書と遺品も無傷で見つかり、押収された。 この時、既にエリザベートもルイ・シャルルも生きてはおらず、フェルセン伯爵も暴徒に虐殺されて唯一、娘のマリー・テレーズだけが生存していた。 1816年、王妃の死から24年後、娘マリー・テレーズに遺書が手渡された。 そして、ルイ18世の治世時には毎年、王妃の命日10月16日にフランス全土の教会において、王妃の遺書が朗読された。 涙で滲んだ王妃の遺書 午前5時、太鼓が打ち鳴らされて、7時には 広場に全部隊が集結。 厳戒態勢を強いて、巡邏隊は街の辻を回って警戒していた。 その頃、疲労した王妃は手紙を書き終えてベッドで休んでいた。 前日から、何も食べていない王妃を心配して、世話係の女中ロザリーがやって来た。 『マダム、釜戸にブイヨン・スープとパセリを取って置きました』 『私は、もう何も必要としない。 全てが終わったのだから…』 ロザリ−は、『貴女は持ち堪える必要があります。 何か持って来させて下さい』と懇願した。 『ではロザリ−、私にブイヨン・スープを持って来て…』 王妃はロザリーの優しさに応えて、ほんの少しだけ人生最後のスープを口にした。 そして王妃は、着替えの手伝いの為に『8時に来て欲しい』とロザリーに頼み、再びベッドで体を休めた。 午前8時、王妃の着替えの手伝いにロザリーが独房に入って来る。 王妃は着替えをする際に『席を外して欲しい』と、憲兵に頼んだ。 しかし、一時も囚人から目を離してはならないと命令されていた憲兵は、立ち去る事を拒んだ。 出血が止まらず下着が汚れていた為、清潔な下着に着替えて、死へ臨もうとしている王妃は仕方なく、ベッドと壁の隙間で着替えた。 ロザリーは憲兵の目に触れないように努めていが、憲兵は屏風の上から、王妃の着替えを覗き込んでいた。 王妃は亡き後、牢を探るであろう人達の目に曝されないように暖炉の後ろの壁の隙間に素早く押し込んで隠した。 幽閉中に身に着けていた肌着 そして王妃にとって、喪服にあたる白いモスリン・ドレスを着て、モスリンのショールを肩に掛け、白いボネを被った。 健気なロザリーは、王妃に声を掛ける事なく部屋を去って行った。 寒さに震える中、王妃の牢にジラール司祭が訪れた。 しかし王妃は、共和国に宣誓したジラールを認めなかった。 ジラールが『刑場まで同行してよいか?』と尋ねると、最後の時を迎える覚悟も準備も出来ていた王妃は、『お好きなように』と、無関心な態度で答えた。 午前10時 王党派でありながら、先祖代々『ムッシュ・ド・パリ』と呼ばれて、罪人の処刑執行人を継承してきた四代目のアンリ・サンソンが入って来た。 サンソンに『手を出すように』と言われた王妃は、『私の手を縛るのですか?』と、うろたえて抗議をした。 判事に促されたサンソンは、王妃を後ろ手に縛り、髪を短く切った。 王妃の遺髪 後ろ手に縛られた王妃 ■ロザリー・ラモリエールの手記 9月虐殺の少し後、私が勤めていたボーリュー夫人が亡くなり、牢獄の管理人はリシャール夫人が勤める事になりました。 コンシェルジュリーのマダム・リシャールは、囚人に対する私の同情心に対して、少しも反感を示しませんでした。 8月1日、王妃がこのコンシェルジュリーに移されて来ました。 ベッドは王妃に似つかわしくない物でしたが、私達が用意した上等なシーツと長枕でお休みになられました。 4日か5日目頃の事、王妃から金時計を取り上げる事になりました。 王妃の下着が届けられたのは、10日もしてからでした。 ミショニがマダム・エリザベートから預かって来たようです。 白麻のシュミーズ、ポケットハンカチーフ、三角スカーフ、絹や荒絹の靴下、白い普段着、夜のボンネット、沢山のリボンの端切れ。 王妃は大きな喪の帽子を被っておられました。 お持ちの寒冷紗でボンネットの仕立てをマダム・リシャールに頼みました。 私は残りの寒冷紗を頂きました。 まだ大切にとっています。 ある日、マダム・リシャールは彼女の息子、青い目の品の良い1番下の息子を王妃の部屋に連れて来ました。 王妃は、その息子を抱きしめ、優しくキスをして王太子の話を始めました。 マダム・リシャールは、かえって苦しめたのではないか…と、連れて行くのを止めようと話しました。 マダム・リシャールは法令により、お食事に使う王妃の銀器を隠す事になりました。 私は王妃が食事をされる器は銀のように磨きました。 王妃は鳥を二日間食べられるように2つに分けます。 その手さばきは見事です。 二皿目の野菜料理。 王妃はかなりの食欲でお召し上がりになりました。 マダム・リシャールがいた頃は、心のこもった食事を出されていました。 美味しい鳥、上等な果物。 9月半ば、ド・ルージェヴィルという男がミショニという衛兵によって、王妃の部屋へ連れて来られました。 王妃の服の裾の所にカーネーションを落として行きました。 女中のアレルは何もかも見ていて、フーキエに報告しました。 リシャールとマダム、上の息子は、サント・ペラジー、マドロネットの独房に入れられました。 新しい管理人はルボー、そして娘のヴィクトワール(マダム・コルソン)。 ルボーはマダム・リシャールの投獄の件で、くれぐれも不注意に親しくするのは気を付けるようにと言いました。 管理は厳しくなり、王妃の食事は、鳥か仔牛のお肉の主食に野菜料理は一皿になりました。 そして、マダム・アレルがいつも髪を結っていましたが、彼女がいなくなって、王妃はご自分で髪をお結いになるのです。 王妃は折り返しのある小さな部屋履きを履いていました。 私はこの綺麗な、うつぼ黒の履物にブラシをかけました。 サン・テュベルティ風でした。 ある将校が、私はいつも王妃の部屋履きをブラシをかけているのを見て、王妃の履物を1つ取り磨いてくれたのです。 不幸なカーネーション事件から、洗濯屋のソーリュウが来なくなり、代わりに私が真っ白に洗って差し上げました。 革命裁判所の書記は、王妃の幾つかかの下着類を取り上げ、時々1枚ずつ与えるようになりました。 王妃の2つの指輪も取り上げられました。 王妃の生活は、ご不自由で蜀代もランプもありません。 裁判を受ける日は断食させられました。 16日、フランス王妃が死刑の宣告を受けた事を知りました。 私は自分の部屋で叫び声と泣き声を押し殺しました。 夜が明ける前、宣誓司祭がやって来ましたが、王妃は断りました。 「今朝は何をお召し上がりになりますか」 王妃は涙を流しておりました。 「何もいりません。全ておしまいですから」 私はあえて「スープとヴェルミセルがございます。 しっかり、なさらなければなりません」と言いました。 幾さじか飲み込むのがやっとでした。 王妃は憲兵の前で注意深く、誰かが持って来たシュミーズを身に着けました。 朝に身に着けられる白いビケの普段着にモスリンの肩掛を身に付けました。 髪は少し高く結い上げ、ひだのある飾りで縁どられた寒冷紗の帽子。 形も変わらなければ傷みもしなかった黒い布製の靴。 私は王妃の前で悲しい思いをさせぬよう、さよならもお辞儀もせずに別れました。 午前11時 コンシェルジュリー牢獄の門扉が次々と開かれた。 先に処刑されたルイ16世が革命広場に向う時は、立派な馬車で移送されたのに対して、王妃が乗せられるのは、死んだ家畜や罪人を運ぶ粗末な荷馬車で布1枚、クッション1つも用意されてはいなかった。 午前11時10分 気温10度の中、牢獄の長い廊下を通って士官達、銃で武装した衛兵隊に先導されて、王妃が牢獄を出た。 後ろには、王妃を縛った綱を握るサンソンが続いていた。 コンシェルジュリー牢獄の出口 サンソンの介助で王妃が粗末な荷馬車に乗り、隣にジラール司祭が座った。 革命広場に向かう王妃 サンソンと助手達は脱帽したままトリコルヌ(三角帽)を小脇に挟んだ。 刑場までの沿道には王妃の救出を警戒して、3万人の憲兵が動員された。 沿道には処刑される王妃の姿を見物しに多くの民衆が詰め掛けていた。 午前11時15分 王妃を乗せた荷馬車がコンシェルジュリー牢獄を出発。 荷馬車はゆっくりと進んで行き、セーヌ川を渡って、ギロチンの設置されている革命広場(旧ルイ15世広場)(現コンコルド広場)へと向かって行く。 革命広場への道は3万の部隊に護られて、革命広場には万人の群衆で溢れていた。 群集から、王妃に向かって口々に『オーストリア女に死を!『売女よ死ね!』『破廉恥な王妃!』など、野次と罵声が相次いで浴びせられた。 そんな群衆からの罵声を浴びても、王妃は何も聞こえていない様子を見せていた。 しかし、一人の小さな男児が王妃に微笑みながら、接吻を投げ架けた時、亡きルイ・ジョゼフと幼いルイ・シャルル(ルイ17世)を思い出したのか、王妃の瞳に涙が光った。 群衆の中には、かつてヴェルサイユに仕えていた者や出入りの商人だった者もいる中、皆、一様に王妃を嘲り、正午の時を告げる鐘が鳴り響いた。 群衆は興奮して、帽子を投げたり、拍手をした。 露天商は抜け目無く、この見世物に集まった群衆にレモネードやパン、新聞を売っていた。 不意に人垣が割れたかと思うと、王妃を乗せた荷馬車が現在のコンコルド広場中央のオベリスクが建っている『ルイ16世とマリー・アントワネットの処刑された場所』と記したプレートが埋め込まれている場所に到着。 革命当時にギロチンが設置されていた場所は、広場北西のホテル『クリヨン』の前に建つ『ブレスト像』の前で、述べ1119人が処刑された。 荷馬車が断頭台の前に到着すると王妃は、テュイルリ−庭園の方をチラっと見て、誰の手も借りずに荷馬車から降りた。 そして、毅然とした態度で断頭台の階段を登って、自ら頭を振って帽子を振り落とした。 断頭台上の王妃 断頭台に登る際、脱ぎ落したとされる「サン・チュベルティ風」の短靴。 (10.2cm×23.2cm) ※処刑もしくは埋葬時に収拾。 王妃の最期の数週間に付き添った獄吏によると、この頃、王妃は「サン・チュベルティ風」の黒い短靴を一足所有していた事が分かっている。 処刑執行の準備の為に4分程の時間が掛かった。 執行人サンソンは、王妃の両手を後ろ手に縛り上げた縄の端を握っていた。 王妃は前方を睨んだまま、最後まで強さを失うまいと精神力を集中して、取り乱したり、見苦しい素振りを見せる事なく、直立板へと導かれると執行人サンソンに身を委ねた。 堅い板に身体が縛り付けられて、板が傾き、重い木の首輪が王妃の首に架けられてネジで固定された。 午後12時15分 ギロチンの刃が鈍い響きを立てて落下。 そして、助手が王妃の血のしたたる頭を掴んで、群集に向かって高々と示した。 マリーアントワネットの処刑@ 何万人もの群衆から『共和国万歳!自由万歳!』と、地響きのような歓声が繰り返し沸き上がった。 王妃の最後の言葉は『さようなら、子供達。 あなた方のお父様の所に行きます。急いで下さい』と、サンソンに残した言葉であった。 王妃の言葉を聞いた王党派の執行人サンソンは、後に密かに国王ルイ16世と王妃マリーアントワネットの為にミサを行った。 王妃の刑が執行された後、昼飯の時間帯もあり、群衆達は一斉に退散し、広場は閑散とした。 数名の憲兵が暫く断頭台を見張っていた。 やがて、王妃の遺体は刑吏によって、小さな手押し車に。 首は手押し車の足に載せられてマドレーヌ寺院の共同墓地に運ばれた。 しかし、埋葬命令が出ない事と役人の昼食の時間であった事から、膝の間に頭を置かれた状態で半月近くもの間、墓地の隅の草地に放置されたままで、王妃の遺体が埋葬されたのは、処刑から約2週間後の事だった。 その王妃の遺体埋葬の一部始終を墓地に隣接する自宅窓から、眺めていたのが熱烈な王党派で元大法官の弁護士デクロゾーだった。 1796年 パリ市内の全ての墓地を閉鎖する事になり、それに伴いマドレーヌ墓地は競売に出された。 買い手として、いち早く名乗り出たのがデクロゾーで国王夫妻が葬られた墓地の世話を自らしたかった為、旧マドレーヌ墓地を買い取った。 デクロゾーは、自分の庭になると直ぐに国王夫妻が葬られていた場所に2本の柳と数本の木を植え、懇切丁寧に手入れをしていた。 他の人々の遺骨の多くは、後年にカタコンブへと移された。 1814年 王政復古でルイ16世の弟プロヴァンス伯がルイ18世として王位に就き、兄夫妻の遺体を改葬する為に4550フランでデクロゾーから、埋葬されている敷地を買収した。 1815年1月18日 朝8時、ルイ18世が派遣した代表団が旧マドレーヌ墓地だったデクロゾーの庭に向った。 代表団にはアンリ・ダンブレイ大法官、ブラカ国務大臣の他、医者、司祭などがいた。 この日は、王妃の遺骨発掘が行われた。 処刑後、遺体は投げ込まれるようにして葬られた為に確実な場所が特定できず、当時の墓堀人夫を呼び出して埋葬場所を探した。 代表団が見守る中で発掘作業が始まり、30cm程の厚い生石灰の床に木の破片が散らかっているのが見つかり、続いて女性の骨の断片が発見された。 頭は完璧な状態で見つかり、首が切られた跡も確認された。 服の断片と2つの靴下止めも見つかった。 その靴下止めは、王妃が捕われの身だった時に自ら作った物であった。 そこで見つかった全てが用意された仮の棺に丁寧に保管された。 翌日朝、ルイ16世の遺骨発掘作業が始まった。 深く土を彫り続けた時、男性の遺骨が発見された。 両脚の間に頭を挟んであり、このようか状態で埋葬されたのは国王だけであった事から、直ぐにルイ16世の遺骨と確認されたが衣服は一切、見つからなかった。 遺体に大量の生石灰が撒かれていた為に溶けてしまったと解釈されている。 王妃と同様に国王も仮の棺に保管されて、二人の棺はデクロゾーの館のサロンに安置された。 その後、複数の神父による長い祈りが捧げられた。 1815年1月20日 国王夫妻の遺骨は、ルイ18世の依頼で運ばれて来た鉛の棺に移されて、棺は黒一色の布で包まれた。 1815年1月21日 奇しくもルイ16世の22回目命日、国王夫妻の棺が王家墓所のサン・ドニ大聖堂へと移送される葬儀行進が行なわれた。 サン・ドニ教会へと向う壮麗な葬儀行進 朝、デクロゾー家を離れた二人の棺は葬儀馬車に乗せられて近衛兵、衛兵、憲兵、騎兵隊に見守られながらサン・ドニ大聖堂へと向かった。 沿道には、おびただしい数の群集が詰め掛けていた。 黒い布で包まれ、無数の蝋燭が灯されたサン・ドニ教会に到着すると近衛兵が二つの棺を下ろし、内陣に用意された台の上に置かれてミサが始まった。 国王夫妻の娘アングレーム公爵夫人は姿を見せなかったが、オルレアン公爵夫妻、ベリー公、コンデ公、ブルボン公爵など、高位の貴族が多数参列して、偉大なブルボン王朝の人にふさわしい厳粛で格式高い立派なミサであった。 1815~1826年 マドレ−ヌ墓地跡地でマリーアントワネットの遺体が放置された草地の横にルイ18世によって、(Chapelle expiatoire/贖罪礼拝堂)が建設された。 贖罪礼拝堂 地下聖堂の祭壇 ■フランソワ・ジョセフ・ボシオ作 天国を指し示す天使とルイ16世 たゆまぬ信仰に支えられるマリーアントワネット 贖罪礼拝堂の建設を命じたルイ18世が亡くなった後、1824年に弟のアルトワ伯がシャルル10世と名乗り王位に就く。 シャルル10世の息子アングレーム公爵と結婚して、後にフランス最後の王太子妃になったのがマリーアントワネットの娘のマリーテレーズ(アングレーム公妃)である。 <<重要なお知らせ>>@peps!・Chip!!をご利用頂き、ありがとうございます。
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