タンプル幽閉生活
タンプル搭は13世紀のフランス『国王を凌ぐ金持ち』と、言われていたテンプル騎士団の本拠地であった。
現在は、皇帝ナポレオンの命令で取り壊されて跡形もなく、公園のみになっている。

1791年8月13日
国王ルイ16世一家と側近は、8月10日に避難して以来、連日の臨席を余儀なくされた国民議会への出席を免れた。
国民に人気があった筈のルイ16世は、ヴァレンヌ事件後、国民からの信頼を失っていた。

前日の議会で国王一家を司法大臣官邸に移すよう提案されたが、そこは民家に面している事から脱走しやすいという理由で、周辺には兵士を配備して、通信は禁止するという厳しい措置で検事総長ルイ・ピエール・マニュエルがタンプル塔への移送を提案した。

タンプル塔は、中世のテンプル騎士団の城だった場所で革命勃発前は、王弟アルトワ伯の幼い息子アングレーム伯がタンプルの聖ヨハネ修道院の修道院長に任命されていた。
父のアルトワ伯は後見人として、この地に宮殿を持っていた事から、マリー・アントワネットもアルトワ伯の邸宅に移るものだと思っていた。

このタンプルは、かつてアルトワ伯が暮らして、マリー・アントワネットには思い出深い場所であった。

タンプル塔に移るにあたり、ルイ16世は奉公人を付けるようコミューン(フランスにおける基礎自治体)に申し入れて、従者2名、侍女4名だけが許された。
国王一家と共にタンプル塔に移送されたのは、ランバル公妃、トゥゼル夫人と令嬢ポーリーヌ、同行するのはコミューンの検事総長マニュエル、パリ市長ペティヨン、パリ市委員コロンジュ。

そして、マリー・アントワネットがテュイルリー宮から持ち込めた荷物は、シャツとスカート4枚ずつ、ロープ1枚、化粧用ロープ1枚の数点だけだった。



午後18時に国王一行は、一台の宮廷馬車に詰め込まれて、馬車は真っ直ぐにタンプル塔には向かわずにゆっくりと市の中央の大通りを通って、ヴァンドーム広場を廻ってパリの民衆に見せる為の道のりだった。

タンプル塔には、4つの塔に囲まれた要塞(※テンプル騎士団が建設した天守閣)で、窓には鉄格子が嵌まり、石の壁は厚さ3m近い陰気な外観だった為、マリー・アントワネットは何度かアルトワ伯に取り壊すように頼んだが、アルトワ伯は城塞をそのままにしていた。

コミューンが国王一家と側近を監禁しようとしたのは宮殿ではなく、この城塞であった。
しかしコミューンの誰も言い出せないまま、国王一行は豪華な食事が用意された大広間(4つの鏡の間)に通された。

国王一家と側近が食事をする間にペティヨンは、滞在先を宮殿にすると市庁に申し出たが、コミューンは城塞にこだわって結局、アニュエルが城塞を囲む小塔を仮の住居と決めて、国王一家と側近は小塔に幽閉される事になった。
この小塔には、テンプル騎士団の文書管理人パルテルミーが住んでいたが急遽、住み慣れた住居を追い出された。

午前1時、先に小塔に寝かされた幼いルイ・シャルル以外の人々が、国民衛兵と憲兵の嘲りの中、中庭を抜けて小塔に上がって行った。
この陰鬱な要塞が国王一家が最後に揃って暮らせる住居となった。

そして同夜、コンシェルジュリー牢獄からカルゼール広場に恐怖の象徴ギロチンが据え付けられて、この恐怖のギロチンが王党派も革命派も問わず、無用の殺生を繰り広げて行く。

今後、タンプル塔で生活する国王一家が快適な暮らしを送れるように監視の存在以外、王家の人々にとってテュイルリー宮殿より優遇する措置がとられた。

タンプル小塔の1階に国王の居室、王妃と子供達、2階に王妹エリザベートの部屋が与えられて、国王一家の新しい住居となった。

国王の部屋には、多数のラテン語の古典を含めた237冊の書物を収めた書庫が用意された。

王妃の部屋には空色の絨毯が敷かれて、青と白の絹地張りのソファー、肘掛け椅子などが置かれた。



国王一家に配慮されたのが食事で、正餐はポタージュスープ3皿、アントレ4皿、焼肉6皿、アントル5皿、新鮮な果物、砂糖漬けの果物、シャンパン、マルムジーワイン、ボルドーワインが供された。

王家の食費は3ヶ月半で35万(約3億5千万円)リーブルに上った。



そして、外から中部が見えないように全ての窓が厚い布で覆われた。

国王一家の監視に当たっていたのは、1789年の革命の立役者の中でも最も根性の下劣な『狂犬』と異名をとる極左派のエベールであった。
(※後に革命指導者ロベスピエールやサン・ジュストに告発されて処刑される)エベールだが、ルイ16世を失い無力になったマリー・アントワネットに対して、執拗な脅迫を繰り返すのが彼である。

タンプル塔の監視は厳重だったにも関わらず、国王一家も外界の出来事を詳しく知る事が出来た。
召し使いに見聞きした事の全てを教えて貰ったり、王党派に雇われた新聞の売り子は、塀の外でニュースを叫んでい聞かせた。



国王一家は規則正しい生活を送った。
国王は朝6時に起床、着替えて9時まで読書。

王妃は国王よりも遅く起きて、息子の着替えを手伝って、子供達と王妹エリザベートらと朝食。

食事の後は、国王が王子に本を読ませたり、文章を書かせたり、ラテン語/歴史/地理などを教えていた。

王妃とエリザベートは、娘マリー・テレーズと絵を描いたり、音楽を教えたり、庭園を散歩したりした。

昼食は王妃の部屋で食べて、午後からは昼寝、編み物、刺繍、テーブルゲームなどをした。
夜20時にルイ・シャルルが就寝、その後で晩食。
国王は自室で読書をして、王妃はマリー・テレーズ/王妹エリザベートと一緒に過ごした。



1792年8月19日
ランバル公妃は、王室支持者として、タンプル搭からラフオルス牢獄へと移送される。
監獄後、王妃への忠誠心から誹謗を頑なに拒む。

1792年8月22日
男子普通選挙で選出された国民公会によって、王政の廃止が決議されてブルボン王朝は一旦、中断される。

1792年9月3日
この頃の民衆の怒りは貴族にまで向けられていた。
そして外国勢力と裏で結託していると思うようになって、民衆は理性を失っていた。

パリの牢獄は、反革命主義と看做された囚人で既に満員になっている中で、民衆による牢獄襲撃『9月虐殺』が始まった。

次々と牢獄が襲われて、囚人は手当たり次第に引きずり出されて、問答無用の殺害や略式裁判のマネ事の後に虐殺するという見るも無残な行動に出ていた。

そして、パリの至る所で犠牲者の叫び声が上がって、水路という水路は泥に混じって血が流れた。

王妃が14歳でフランスに輿入れして以降、王妃の良き友人であったランバル公妃も彼女が王妃の友人で王党派であるという事から、憎悪した暴民によって虐殺された。



ランバル公妃の遺体から衣装を剥ぎ取って、裸にし切断して、パリの町中を引きずり回して踏みにじった。
ある一団は、ランバル公妃の首を槍の先に突き刺し、長いブロンドの髪の毛は血に染まり、その髪を風にたなびかせて、王妃の幽閉されているタンプル塔の窓に掲げて見せ付けるという示威行為をとった。

気丈なマリー・アントワネットも親友のランバル公妃が虐殺されたというニュースを番兵から聞くと、叫び声と共に気を失って倒れた。

1792年9月21日
国王は『ヴァレンヌ事件』が起こるまで、国民の境遇に心を悩ませる心優しい国王として絶大な人気を得ていた。

マリー・アントワネットの噂はどうであれ、国民の良き支配者であり、国王としての威信が地に落ちる事はなかったが、遂に王制廃止となり共和制が始まる。

国王一家は、もはや悪質な政治犯として見られて釈放の余地はなくなった。



1792年11月20日
裁判の為の調査委員会によって、テュイルリー宮殿の国王の住居から鉄の『秘密の戸棚』が発見された。

メモ書きだったが国王は様々な書類を戸棚の中に隠していた。

●革命当初から、国王が表と裏の顔を持っていた事

●亡命者と連絡を取っていた事

●外国と交渉していた事

これら国王と外敵との通謀を示す動かせない証拠文書が出て来た事で政治犯として、国王の有罪は決まったようなものだった。

また秘密の戸棚を作った錠前師ガマンが王妃から、葡萄酒とビスケットをもてなされた所、それを食べて猛烈な腹痛に襲われた。
ガマンは毒殺の陰謀に架けれたと思い込み、1年後に内務大臣ロランに通報した。

国王は裁判が開始されるまで家族と引き離されてタンプル塔の大塔に移されたが、少塔の時と同じく1日を家族と過ごす。

※「国王の従僕クレリーの日記」
国王御一家が大塔に揃われてからも、それまで通りだった。

タンプルはミサが禁じられていたので、聖務日課表を私に買ってくるよう命じた。
陛下は本当に敬虔な方なのである。
しかし陛下の信心は純粋にして理性的なものであり、他の義務を疎かにする事はなかった。

色々な旅行記、モンテスキューの著作、ビュフォン伯爵の著作、プリューシュの自然の景観、ヒュームの英国史、ラテン語のキリストのまねび、イタリア語のタッソ詩に様々な戯曲はいつも読んでおられた書物である。

1792年12月11日
国民公会の法廷が始まり、ルイ16世の称号は『ルイ・カペー(平民名)』と呼ばれる事になった。

そして判決が出るまで、ルイ16世は家族と会う事も許されなくなった。

1793年1月14日
ルイ16世の罪に関する3つの投票が行われる。

1793年1月18日
ルイ16世の執行猶予についての投票が行われて有罪が確定した。
ルイ16世の従兄フィリップ・エガリテは死刑票に投じた。

1793年1月20日
賛成387票:反対334票

賛成の内、執行猶予を望む票が26票あり、この票を反対票に加えると361360となって、僅か1票差でルイ16世の死刑が確定した。

午後14時、王妃はタンプル塔の外で叫ぶ声を聞いて驚愕した。

『国民公会は、ルイ・カペーが死刑に処せらるべき事を決定す。
処刑は囚人に通知した後、24時間内に行わるべし』


夜20時、泣き続ける王妃の部屋に市の役人が現われる。

『本日は例外として、ルイ・カペーに会う事が許された』

王妃と家族に国王との面会許可が下ると、階下の食堂に王妃とルイ・シャルル、マリー・テレズ、エリザベートが訪れた。

4人の役人達は、最後の時間を家族だけで過ごせるようにと配慮して部屋の外から監視する。
そして介添えの司祭衞エジウォル・ド・フィルモン神父が部屋に残った。

王妃と家族たちは国王に縋り付いて泣き叫び、タンプル塔の外まで聞こえる程の悲痛な泣き声が15分間止む事がなかった。

ファイル

国王は落ち着いた威厳ある態度で幼いルイ・シャルルを膝の上に抱き上げると、『決して、国民たちに復讐しょうなどと考えてはいけない』とルイ・シャルルの手を上げて誓わせた。



午後22時15分
国王が立ち上がるのを合図に家族は去らなくてはならなかった。
ルイ・シャルルは『お父様が死なないで済む様にお願いですから、パリの委員に会わせて下さい!』と、役人に懇願する叫び声が塔内に響き渡った。
そして、悲しみの余り失神する王妹エリザベートを国王の侍従クレリーは目撃していた。

1793年1月21日
国王は『家族にサヨナラを伝えて欲しい』と侍従クレリーに頼んむと、憲兵に囲まれながら、タンプル塔の庭園から家族の住まう天守閣を2度、見上げると馬車に乗り込んだ。

そして、国王を救出する噂が飛び交う二重の人垣を作る通りの中、馬車は革命広場へと向かって行った。

革命広場で処刑を一貫して指揮する人物は、『ムッシュ・ド・パリ』と呼ばれたアンリ・サンソン

サンソン自身は王党派で国王を熱心に崇拝していた。
しかし、サンソン家の職務は罪人処刑の執行人で4代目の当主サンソンは、一睡も出来ないまま朝を迎えて、息子アンリと2人の弟と共に家を出た。

午前8時には革命広場で待機する筈が、群集に阻まれて1時間遅れて午前9時に到着した。

王党派のサンソンと2人の弟達は、国王救出の噂を願い、国王救出の際には逃げ道を作る決意をしていた。
また国民衛兵として警護に加わる息子アンリも父の意志に従おうと処刑台の近くで警備に就いていた。

既に革命広場には、2万人の群集が溢れていたが声を発する者はいなかった。

午前10時を過ぎた頃、サンテール将軍率いる1000人以上の騎兵隊が国王の馬車を護衛しながら、革命広場に到着した。
そして馬車から、2人の憲兵とフィルモン神父、最後に国王が降りて来た。

午前10時20分
国王はフィルモン神父に自分の髪の毛と結婚指輪を王妃に渡して欲しいと託した。

そして両手を後ろに縛られ、シャツの衿を切って広げられると国王の処刑の準備が整えられた。

フィルモン神父に支えられて、処刑台への階段を一段ずつ上って行くと20ばかりの太鼓の音が鳴り響き、国王が壇上に辿り着いて頭を振り、群集の方を振り返ると太鼓の音が鳴り止んだ。

『人民よ!、私は無実のうちに死ぬ!』

楽隊の指揮官の号令で再び太鼓が打ち鳴らされた。
太鼓の音が国王の声を閉ざした為に国王は傍らの人々に言った。

『私は、私の死を作り出した者を許す。
私の血が2度とフランスに落ちる事のないように神に祈りたい』


午前10時22分
国王の体は、かつてルイ15世の騎馬像があった広場東方面を向いて横たえられた後、サンソンの執行によって、ギロチンの刃が鈍い音と共に落下して断首された。



かつて、革命前に国王は《人道的な処刑具》として、ギロチンの導入を検討させて『苦痛を与えないように刃の角度を斜めにするように』と、ギロチン改良の助言を行っていた。

国王の首が断首されると民衆はハンカチ、紙、その他、なんであろうと王の血を浸した。
そして、国王の血しぶきが群集に降り掛かると国王の血で染まった髪を買い求める者もいたという。

10時半に大砲が一斉に撃たてタンプル塔の衛兵隊が太鼓を打ちながら『共和制万歳!を叫んだ。

王妃は、連打される太鼓と大砲の音で国王の刑が執行された事を知り、啜り泣きながら寝台に倒れ込み、マリー・テレーズは悲鳴を上げて、ルイ・シャルルは泣き出した。

王妃は悲しみと絶望の中、ルイ・シャルルの前に膝まづいてルイ17世の即位を讃えた。

そして、マリー・アントワネットはフランス王妃であり、母であり、こうした窮地に立たされて、初めて自分がどういう立場の人間だったのかを自覚して、それに相応しい態度で臨んで行く決意をする。

以降、王党派からルイ・シャルルは『ルイ17世』と称されて、ルイ16世の弟プロヴァンス伯(後のルイ18世)伯爵は、亡命先で摂政を名乗る。

1793年3月10日
ジャルジェイ将軍が、王妃を救出しようと計画するも未遂に終わる。

王妃は夫亡き後、家族を残して自分1人だけが助かる事を望んではいなかった。

1793年3月21日
監視委員会が設置される。

1793年3月28日
亡命者に対しては死者とみなされて、財産没収の法律が制定される。

1793年7月3日
『王党派がルイ・シャルルを強奪して、ルイ17世として即位させようとしている』との噂が立った事で王妃とシャルルは引き離された。



この日から、王妃は喪服を脱ぐ事をせずに口も聞かなくなって、部屋中を亡霊の様にさ迷うようになった。





フランスの新しい指導者にとって、王妃は諸外国との取引の為の人質のようなもので重要な存在である事から、厳重保護する為にコンシェルジュリー牢獄へと移送される事になった。






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