ベルサイユ行進(10月事件)

国王ルイ16世は、議会が決定した封建的廃止、人権宣言を承認しなかった。
国王が裁可しない限り、法律は有効と成らないので議会は苛立ちが昂じていた。
また、この秋は凶作でパリでは食糧が不足し、パンが急騰して市民の不満が強まっていた。

1789年10月1日(木)
国王がヴェルサイユ宮殿に招いたフランドル連隊の歓迎の宴会では、食糧がふんだんに出され、また士官達がパリ市民の三色記章を踏みにじり、王妃マリー・アントワネットの色である黒のリボンを付けていた。
これが民衆に伝わると市民の怒りは爆発した。

フランス革命のジャコバン派の指導者マラーは、人民に『武器を取って、ヴェルサイユに進撃せよ!』と唱えた。

10月4日(日)
国王は親しい貴族達を国外に亡命させて、王室に忠誠心を示すフランドル連隊を呼び寄せた。
これが更なる民衆からの反感を買う事になって、革命運動の中心地パレ・ロワイヤルの庭園では『ヴェルサイユ宮殿に押し駆けよう!』という女達の声が高まった。

10月5日(月)
早朝、若い女達が衛兵所から太鼓を奪うと大勢の女達が伴って『パンをよこせ!』と喚きながら、行進を始めた。
女達はパリの貧民街サン・タントワーヌの主婦達。
そのうち、女装した男達までもが加わった。
男達はパンを求める女達をパリ市庁舎へと誘導して、7000人が集結した。

バスティ−ユ襲撃後、7月15日にパリ政府の最初のパリ市長に選ばれたジャン・シルヴァン・バイイは、この騒動に成す術もなく、国民軍事司令官ラファイエット将軍に援護を求めた。





男達と共に武装した女達が鉄砲を持つと、そこにバスティーユ牢獄襲撃の英雄マイヤール(本職は執達吏見習い)が現れて、彼の先導でヴェルサイユ宮殿を目指した。

途中から、雨が降り出して、びしょ濡れになりながらも、怒りに燃えてた女達は、約25kmの距離を大砲を引きながら、6時間を歩き続けた。

そして、女達は口々に『パンをよこせ!』

『王妃の腹腸を引きずり出してやる!』

『あの女の頭をちょん切ってやる!』

『あの女の腹腸で帽章を作ってやる!』
などと喚きながら進んで行った。

国民衛兵隊司令官ラファイエット率いる2万の市民軍が、武装行進を妨げようとするも統率のとれていない国民衛兵は出遅れていた。
国民衛兵が武装行進の後を追ってパリを出発したのは、2時間後で行進を護衛するかのようになっていた。

この日の朝、ヴェルサイユでは、いつも通りに国王はムードンの森へ狩猟に出掛けて、王妃は小トリアノン離宮で過ごして、宮廷は正午過ぎまでパリで起きた異変を知らずにいた。

王妃が丘の陰にある小さな『恋の洞窟』の石のベンチに腰を掛けて、泉の水音に心癒されている時、大臣サン・ブリストに命じられた小姓が急いで駆け着けて、王妃に事態を知らせた。

王妃は、二度と永遠に戻る事のない愛したトリアノン離宮を振り返る事も無く、急いで宮殿に向かった。
狩猟を楽しんでいた国王も急遽、知らせを受けると馬車を走らせて宮殿へと戻って行った。

そして又、王家/王政に反対する過激な印刷物や動きに目を光らせて、王妃を守りたい一心で暴徒と化した群衆の横を愛馬を飛ばし、宮殿へと駆け付けたのがフェルセンだった。

女達がヴェルサイユ宮の正門を壊して、中庭に着いたのは、夕方の4時。


宮殿前に集まった民衆達

15人の代表を議会に送り出した。
代表者は雨に濡れて、泥にまみれた貧しい服装の男2人と13人の女であった。
彼らは、『食料の高騰とフラドル連隊の暴行』について訴えた。

そして、革命指導者ロベスピエールが代表団を支持する演説をすると、議会は直ちに国王の下に代表を送って、パリ市民の要求を認める事を決議した。
議長ムーニエが任務を任されたが、心からの王党派である彼にとっては辛い仕事であった。

パンを求めて宮殿に集まった民衆達は、更に4時間近くの待機を強いられて、宮殿の門扉は固く閉ざされた。

そして、この時点で国王は暴徒を阻止する命令を出してはいなかった。
ダルム広場には近衛隊、フランドル連隊、国民衛兵隊が戦闘態勢を整えていた。

夜20時、ヴェルサイユ宮殿に戻った国王は、宮殿前に集った数千の群集に恐れをなして、議会が要求した事を受諾して、パンの配給を表明した事で群衆の興奮は幾分かは納まった。

宮殿の「王妃の御殿」では、会議が始まってサン・ブリスト大臣は、国王が兵を率いて市民を迎え撃つ間に王妃と王女マリー・テレ−ズ、王子ルイ・シャルル、王妹エリザベ−ト、王弟プロヴァンス伯爵夫妻、国王の伯母達をランブイエに避難させる事を提案した。

国王は良案だと考えたが、王妃は国王と離れる事を肯んじずにいた。
家族全員と廷臣、従僕、侍女、国民議会議員が避難する時間は残さていたものの、結論が出ないままに時間だけが無駄に過ぎて行った。

そして、マイヤールを先頭に女達が議会に入って主張を始めると、議会の議長ムーニエと数人の議員は、女達の代表5人を連れて国王に謁見させた。
この議員の中には、ギロチンの発明者ギヨタン博士もいた。

国王は、愛想よく彼女達を迎えると1人の女は感動して気を失い、国王自らがワインを手にして彼女に飲ませた。
そして、国王が彼女達の主張とパンと小麦粉を与える事を約束すると代表は仲間の元へと戻った。
しかし、女達の一団に紛れ込んだ指導者によって、扇動された女達はパンだけでは納得せず、『国王と家族をパリに連れて行く!』と騒ぎ立て、国民議会へと向かい一夜を明かした。

この騒ぎに危険を感じた王妃は、ランブイエに避難する事を受け入れた。
しかし事態は遅く、暴徒は馬車を襲撃して馬と馬具を外して連れ去った。
この為、暴徒が馬車を囲んだ主馬寮から、馬車を出す事は不可能だった。

この時、国王と王妃は初めて自分達が囚われの身になった事を実感した。

深夜12時半に国民衛兵隊2万を率いたラファイエットがヴェルサイユに到着した。
ラファイエットは、ダルム広場に部下を残して宮殿に向かうと国王に謁見して、宮殿警備を一任するよう国王に進言し、フランス衛兵隊は以前の部署に戻すよう要求した。

国王は同意したが王妃は、ラファイエットの事を全く信用しないまま、不安な思いを抱きながら寝室に引き上げた。

ラファイエットは、警護を一任されたにも関わらず、国民衛兵隊を配置して歩哨を立て、見回りを終えると、あろう事かオテル・ド・ノアイユに行き、午前4時に就寝した。

この夜が王家がヴェルサイユ宮で過ごす最後の夜となって、何故か国王の弟プロヴァンス伯爵が夜になって、宮殿から姿を消していた。

この武装行進事件の裏では、女達の暴動は予め綿密に計画されたもので、初めに衛兵所で太鼓を奪った女は両手に豪華な指輪を着けていたと言われていて、反王党派で王位を狙っていた国王の従兄弟オルレアン公と王弟プロヴァンス伯爵が暗躍していたと言われている。

10月6日(火)
午前5時、前日の雨は上がって空が晴れ渡る中、礼拝堂の庭を抜けて宮殿の窓の下に幾つかの集団が忍び込んでいた。

午前6時、王妃の寝室のオルゴールの時計が時を告げた時、王妃が寝室窓下のざわめきを聞いて侍女を呼んだ。
ざわめきは、民衆達が寝る場所を求めて壇上庭園を歩き回っていた為であった。

その一方で、宮殿内に侵入した暴徒に気付いたスイス近衛隊兵士が阻止すべき発砲をして、1人の市民ジェローム=オノレ・レリティエが射殺された。

しかし、銃声は市民側の挑発。
死亡したレリティエは宮殿に侵入しようとして、大理石の階段で足を滑らせて、首筋を強打した事が原因と言われている。

レリティエが死んだ事で空腹状態の武装した民衆デモ隊達が暴徒となって、一気に宮殿に攻め込んで近衛隊士デ・ユットとド・ヴァリクールの2人が惨殺。
1人は怪我を負いながらも王妃に危険を知らせた。
この暴動で侍女は飛び起きて、急いで王妃の寝室へと向かった。

オルゴール時計が鳴って15分後、王妃は二人の侍女に起こされた。
この時、王妃の寝室に愛人フェルセンがいたのを司祭タレーランが目撃していたと言われている。

その間も暴徒は、豪華な調度品を破壊しながら、王妃の寝室を目指して宮殿内を進んで行った。

王妃は、急を知らせる廷臣の叫び声を聞くと下着にスカートだけの姿で靴下を穿いて、ショールを纏ると寝室隅にある『隠し扉』から避難して、『控えの間』に連なる廊下を抜けた先にある国王の部屋に向かった。
しかし、控えの間への扉は鍵が閉まって開かない為に王妃と侍女達は必死に扉を叩いていた。

その背後では、王妃の寝室の扉を斧で打ち破る音と叫び声が迫っていた。
そして、寝室に入り込んだ暴徒が王妃の部屋を掻き回す物音と喚き声とが響き渡り始めていた。

一方、国王の廷臣が侍女と王妃の扉を叩く音に気付いて鍵が外された。
国王は秘密の通路を通って、王妃の救助に行き、王妃の無事を確認すると王太子を連れ出した。
王妃は王女を連れ出して、家族は無事に国王の寝室に避難して集まる事が出来た。


王妃の寝室


隠し通路

ラ・ファイエットは、国民衛兵隊を動かして、宮殿内から暴徒を追い払った。
その沈静した時、反王党派で宮殿襲撃の黒幕といわれている王弟プロヴァンス伯爵と国王の従兄弟オルレアン公が清々しい身なりで現れた。


恐怖におののく国王一家

宮殿の中庭では、民衆らが殺害したスイス近衛兵の首を槍の先に突き刺して、激しい非難の声を揚げながら、国王一家に対して『パリへ!パリへ!』と、叫び続けていた。

民衆達の要請と沈着化させる為にラファィエットは国王を説得。
国王は意を決して、ラファイエットに付き添われて、大理石の内庭に面した正面バルコニーへと出向き姿を見せた。

国王がバルコニーに登場すると、今まで騒いでいた群集から、『国王万歳!』の声が湧き上がった。
しかし、勝利に酔った群集は、王妃をバルコニーに出す事を要求した。

『王妃を出せ!オ−ストリア女を出せ!』

その場にいる全員が狙撃される事を案じて、王妃をバルコニーに出そうとはしなかった。

王妃の自尊心は、民衆に屈服する事を許さなかったが、この暴動を静める為に王妃は決心した。
王妃の髪は乱れて、真っ青な顔をしていたが、冷静に威厳と誇りを失わずにバルコニーに姿を現した。


宮殿/正面の中庭

王妃は自分への憎しみを口にする民衆の前で手を組み合わせながら、優雅にゆっくりと頭を下げて御辞儀をした。

王妃は国王と共にかつてない程に心を一つにして、家族と自分自身の命を守る為に不屈の精神で挑んだ。



王妃の気品ある気高さに群衆達は一瞬、息を呑み静寂が漂った。
改めて、民衆達は母として、王妃として、凛とした態度の王妃の姿に感動した。



ラファイエットが王妃の手の甲にキスをして、敬意を表した事で自然と民衆から『王妃万歳!』との声が一斉に沸き上がった。

しかし、民衆の望みは、国王一家とパリで一緒に共存して行く事であった。

10月6日
午後13時25分、国王一家は宮殿の倉庫から持ち出された小麦粉を乗せた馬車と共にプロヴァンス伯爵夫妻、養育係のトゥルゼル夫人と共に馬車に乗り込んでパリへと出発。


パリへと向かう国王一家

フェルセン伯が『先発して、テュイルリー宮殿で王家を迎える』と申し出たが、『民衆の感情を逆なでする』として、サン・ブリスト大臣が止めた。

国王が『愛したヴェルサイユを大切にして欲しい』と、述べると死を予感するかのように辺りは一瞬、静寂に包まれた。
そして、二度と戻る事のない贅を尽くしたヴェルサイユ宮殿を出発した。

国王一行は、惨殺された近衛隊士の首を槍に刺した一団の後を、僅かの廷臣とラファイエット率いる統率のとれていない国民衛兵隊、スイス衛兵隊を従えて、フェルセンは近衛隊士に変装して一行に加わっていた。

国王一行は、6時間を掛けてパリに到着。
そして、パリ市門ではバイイ市長が歓迎の辞を述べた。
その後、王家は市庁舎に連れられて、再びバルコニーに出るとグレーヴ広場に集まった民衆から『国王万歳!王妃万歳!』と声が上がった。
しかし、これは民衆達の勝利の雄叫びでしかなかった。

夜22時に国王一家は、150年の間、住む者のなかったテュイルリー宮殿に到着した。
扉の鍵は壊れ、窓は割れ、埃にまみれ、、荒れ果てた宮殿が今後の居住地となる。

家具も無い部屋に幼い王太子は驚き、疲れ果てた国王は直ちに休んだ。
王妃は屈辱を忘れる事が出来ず、トゥルゼル夫人は王太子の傍で一睡もせずに夜を明かした。

国民議会と民衆は、この時、ことの重大さに驚き、なんとか事態を収拾しようとしていた。
王家の態度によっては、まだ事態を修復する可能性があったとも言われている。

しかし、王妃は屈服を拒み、昂然とした態度で時の歯車は動きを止める事なく、悲劇に向かって進んで行く…。







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