不吉な結婚式

1770年4月21日
ハプスブルク家の皇女マリア・アントニアは、生まれ育ったシェーンブル宮殿からフランスへと輿入れする為に出発する時を迎えていた。

ウィーンから、ヴェルサイユまでの距離は1570q。

母=マリア・テレジアは、娘アントニアの為に妻として、フランス王太子妃として、異国の地で過ごす際の『心得書』(リスト)を細々と全文フランス語で書き綴った。
『これを母だと思って、毎月21日に必ず読み返すように』と、1通の手紙と共に手渡した。

『朝、目が覚めたら、直ぐに膝まずき祈りを済ませなさい。
1日の始まりに心を落ち着かせる事が出来るかどうか、現世の幸せも来世の幸せもそこに掛かっているのです。

そして、一切、好奇心を持ってはいけません。
これは、あなたの事でとても心配になる点なのです。

恥ずかしがらずに色々な人の助言を求めなさい。
そして、自分1人の考えでは何もしないように』


冷え込んだ春の日の朝、マリア・テレジアは、助言を言い終えると別れを惜しんでアントニアを抱き締めた。

『さようなら、愛する我が子よ。
これからは、途方もない距離が私達を隔てるでしょう。
どうか、フランス国民に良くしてあげて下さい。
私が天使を送り込んだと言われるように…』


若き娘の未來を心配したマリア・テレジアは泣き崩れた。

そして、マリア・アントニアはルイ15世が用意した大型ベルリン馬車に乗って、340頭の馬が率いる57台の華麗な馬車と132人が付き従う大行列で出発した。

マリア・アントニアは人目も気にせずに泣きじゃくり、馬車の窓から何度も首を突き出して、故国に別れを告げた。

この日を最後にアントニアは、2度と母と再会する事もオーストリアの地を踏む事もなくなった。

アントニアを乗せた馬車行列が沿道の群衆に祝福されながら進んで行く。
『引渡しの儀』が執り行われる国境ストラスブールまでを初日は、ヴァッハウ渓谷のメルク大修道院、ランバッハ修道院なとに泊まりながら、通常10日もあれば到着する距離を25日を掛けて行進して行った。

1770年5月7日
オーストリアとフランスの国境ライン河中流の中州に建設された仮宮殿の広間で『引渡しの儀』が執りわれた。



アントニアはオーストリアの随員と別れて、フランス側の随員と合流する。
そして以後、アントニアの世話役となる女官長ノアイユ伯爵夫人がアントニアの前にかしずいた。

この時、アントニアはフランスに忠誠を誓う為に身に着けていたオーストリア製の絹糸1本でさえもフランスに持ち込む事は許されない事から、ドレス・下着・装飾品の全ての物がフランス製の品に取り替えられた。
そして、名前もフランス語読みの『マリー・アントワネット』になった。

儀式を終えて、ライン川を渡ると違う文化圏/アルザス地方のストラスブールでガラス張りの儀装馬車から、沿道の群衆に会釈するマリー・アントワネットの微笑と美しさに誰もが酔いしれた。


輿入れに使われたガラス張りの馬車

アントワネットが見た事のないような独特の木組みの家が並び、アントワネットを迎える為に窓辺には華やかな織物が掛けられ、道には薔薇の花びらが撒かれた。
また一行が街に入った途端、大聖堂をはじめ、街中の教会が祝福の鐘が打ち鳴らされて、噴水には名産の白ワインが流された。

1770年5月8日
ストラスブール大聖堂でミサに出席したマリー・アントワネットに牧師達が挨拶をした。
その牧師の先頭に立って、歓迎の挨拶をしたのは尊敬すべき大司教ではなく、その甥の副僧正だった。

その副僧正は、聖職者でありながら、どこか世俗的な雰囲気の男だった。
彼こそが、ルイ・ド・ロアン枢機卿でマリー・アントワネットの名を徹底的に貶める事になるフランス犯罪史上名高い首飾り事件の主要人物だった。

1770年5月14日
マリー・アントワネットはストラスブールから一週間後、ウィーンを出発してから24日目にパリ北方コンビニエーニュの森に到着した。

そして、先ずマリー・アントワネットはシュワズール公爵の出迎えを受けた。
「貴方が私の幸福を保証してくださるのですね」と、アントワネットが聞くとシュワズール公爵は「フランスの幸福もです」と、ためらう事なく答えた。

そして、ラッパの吹奏が新婦マリー・アントワネット一行の到着を知らせると国王ルイ15世とブルボン家の家族が馬車から降りて来た。

アントワネットは足早に近着いて、祖父になるルイ15世の前に腰をかがめて優美に挨拶をした。
するとルイ15世は、愛らしいアントワネットを抱き起こし、歓迎の記しに両頬にキスをした。

そしてルイ15世は、初めて夫となる王太子ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)をアントワネットの前に引き出して対面させた。

マリーアントワネットの王太子に対する印象は、オーストリアで見ていた肖像画や思い描いていた理想像とは、かけ離れていた。
そんな内気な少年は、堅苦しく、恥ずかし気に立ったままで、ルイ15世にせかされて、ようやくアントワネットにキスをした。


マリーアントワネットの出迎え

この時、マリー・アントワネットは14歳6ヶ月、王太子ルイ・オーギュストは15歳9ヶ月。

その夜、コンビニエーニュ城でアントワネットはルイ15世の親族に引き会わされた。
そして翌日、ラ・ミュエットの狩猟館で、いずれ宮廷内で対立する事になるルイ15世の公妾デュ・バリー夫人と会った。

ルイ15世から、「テーブルの端で微笑む白いドレスの婦人(デュ・バリー夫人)をどう思うかね?」と尋ねられたアントワネットは、「素敵な方ですわね」と素直に答えた。

まだ宮廷の事を知らない14歳のアントワネットは、ノアイユ夫人にその女性の名前と職務をそっと訊ねた。

「名前はデュ・バリー夫人。
お役目は…、王様を楽しませる事です」
という曖昧な返事をした。
アントワネットは、「それなら私は、あの方の競争相手になるとハッキリ申し上げますわ」と無邪気に言い放った。

そして、いよいよ翌日には壮大なるヴェルサイユ宮殿において盛大な結婚式典が執り行われる。

1770年5月16日
朝9時、マリー・アントワネットは『王妃の大居室』に行き、正式な結婚式の為の準備を整えた。

そして、10時に出迎えたルイ15世と暫く話しをして、エリザベート夫人、クレモン伯爵、コンティ公夫人らを紹介された。

午後13時にチャペルに従者達が集まる。

国王の書斎では、金とダイヤモンドで装飾された聖霊騎士団の制服に身を包んだ王太子ルイ・オーギュストがダイヤモンドと真珠で覆われたウェディングドレスの装いのマリー・アントワネットの手を取っていた。

そして、ヴェルサイユ宮殿1階の大礼拝堂で壮大な結婚式が挙行された。


ヴェルサイユ宮殿/王室礼拝堂

2人の結婚式は一般公開されずに名門旧家の貴族だけが見る事を許された。
結婚式典には、総勢6000人が参列。
ヴェルサイユ市内、近郊の農民、バリ市民達が祝福しに宮殿前に詰め駆けた。

式典の前には、ブルボン家代々に伝わる宝石がマリー・アントワネットに贈られた。

その宝石は、かつて『毒薬を使う魔女のような王妃カトリーヌ・ド・メディシス』『陰謀を企て処刑されたスコットランド女王メアリー』らが用いていた不吉な品だった。

式典にあたって『マリー・アントワネットの讃歌』が作られて、王立合唱隊の歌声が響き奉献がされた。


マリーアントワネットの結婚式

君主ルイ15世に付き添われて、ドーファン(王太子)とドーフィーヌ(王太子妃)の2人は、フランス大司教が式を執り行う祭壇に進んで聖域に導かれて膝まずいた。

国王と王家の人々が祈祷台に膝まずいた2人を囲んで、大司教モンシェニュール・デ・ラ・ロシュ・エイモンが聖水で2人を祝福した。

そして大司教から、13枚の金貨とリングを受け取った王太子ルイ・オーギュストは、感動的な雰囲気の中でリングを新婦マリー・アントワネットのほっそりした薬指に嵌めて金貨を与えた。

そして『結婚証書』での儀式の時、最初に君主ルイ15世の署名「ルイ」、次に王太子が署名、3番目に王太子妃が「マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ」と署名した。

マリー・アントワネットが署名した時、彼女は誤って不注意か緊張のせいか、ジョゼファの「J」の上に大きな染みを付けてしまった。
更にアントワネットの最後の「ette」が目立つ程、右下がりになって、ジャンヌの最初の「e」もハッキリ見えない署名となった。


染みの付いた結婚証書

結婚証書に付けられた染みは、まるで未来のブルボン王朝とマリー・アントワネットの不幸を暗示する不吉な前兆のような出来事となった。


復元された婚礼ドレス


婚礼式典が終わった後、自室でマリー・アントワネットは王太子から結婚の贈物として、宝石や豪華な装飾と彫刻が施された見事な飾り棚を受け取った。

次に若い夫妻は、各国大使と謁見した後、ルイ15世の娯楽が行われていた、まばゆいばかりに輝く大回廊(鏡の間)へと移動した。

午後15時、雷雨となって予定されていた祝賀花火の打ち上げが3日後に延期となった。

午後18時、建築家のガブリエルが担当して完成したばかりのオペラ劇場で莫大な数のキャンドルが点灯する中、豪華な公式祝賀晩餐会が催された。

中央上座にルイ15世、王大子と王大子妃が向き合い、プロヴァンス伯、アルトワ伯、マダム・クロティルド、ルイ15世の3人の娘達、王太子の妹エリザベート、オルレアン公、シャトル公、コンデ公、ブルボン公夫妻、クレモン伯、コンティ公妃、ラ・マルシュ伯夫妻、ランバル公妃と公妃の義父らが囲んだ。

そして、晩餐会終了後、ようやく『王妃の寝室』『就寝の儀』が執り行われた。

ランス大司教がベッドを祝福し、新婚夫妻が同じ床に就いている事を証明する為に大勢の廷臣達が見守る中で床入りの儀が行われた。

ルイ15世が寝室を訪れて、王太子オーギュストに夜着を与えてベッドに導き、アドバイスカーテンを閉じる前に王太子に助言アドバイスを与えた。
そしてシャトル公妃がマリー・アントワネットにも同様の事を済ませて、皆は礼儀正しくお辞儀をして退出した。

翌朝、皆の期待する行為が成し遂げられた様子は無かったようだ…、という噂が宮廷内のあちこちで囁き交わされた。

王太子オーギュストの日記帳にも「何もなし」と書き記されている。

1770年5月19日
舞踏会の後、結婚式の晩に予定されていた花火大会が開かれた。
宮廷の人々は大回廊やテラスの方へ向かい、新婚夫婦、国王、メルシー伯爵らは、鏡の間の中央のテラスに陣取った。

そしてフランスで、それまでに例をみない美しい花火が打ち上げられて、幾千もの花火が王太子、王太子妃の紋章や婚姻の神の神殿などを夜空に描き出した。
この晩、幾千ものパリ市民やヴェルサイユ市民が朝6時まで踊り明かした。

以後、結婚式の祝宴行事は30日まで続いた。

1770年5月30日
夜、パリ市コンコルド広場では大掛かりな夜祭りとして打ち上げ花火が予定されていた。
しかし、悲劇の治世を予感させる不吉な前兆でもあるかの様な悲惨な行事になってしまった。

朝方からセーヌ川の両岸には、芳香油が振りまかれて、夕方18時には噴水から葡萄酒が噴出し、日が暮れると2つの宮殿(現在の海軍省とホテル/クリヨン)の正面には灯火が灯され、広場やシャンゼリゼ通りの正面の並木は提灯や火鉢で飾られた。

マリー・アントワネットは、ルイ15世の娘アデライード内親王とお忍びで一緒の四輪馬車に乗り込んでパリに向かって馬車を走らせた。
そして、一行がセーブル橋を超えた所で空が赤く燃え、花火の打ち上げが始まった。

ところが、クール・ラ・レーヌ(現在のカナダ広場~コンコルド広場までの通り)に差し掛かった時、もの凄い叫喚が聞こえ、馬車が突然止まった。

花火の動きに連れて、40万の群集が移動した時、下水工事の為に掘られた街路の溝に群集が転げ落ち、倒され、踏み付けられて馬車も横転した。
馬車は重みに堪えかねて潰れて、馬は窒息死した。

王太子夫妻の結婚を祝う筈の夜祭りが、一転して132名の死者を出す大惨事となってしまった。

マリー・アントワネットは、この大惨事で怪我をした騎乗御者の為に医者が来るのを見届けるまで、1時間以上も馬車を停めたり、怪我人の為に乗り心地の悪い駅馬車でなく、担架を用意するよう命じたりして、その経過を見守っていた。

そして、マリー・アントワネットが涙ながらにヴェルサイユに帰る頃、この132体の遺骸はマドレーヌ寺院の共同墓地に並べられた。
23年後には、この草地の墓地にマリー・アントワネットの遺体も投げ捨てられる事になる…。

翌朝、マリー・アントワネットは市役所宛てに言葉を送った。
「私の事がもとでパリに生じた不幸を知りました。
誠に心痛に耐えません。
国王が毎月小遣いとして、お送り下さるお金を持ってきて貰いました。
私には、これだけしか自由になりません。
これをお送りします。
最も不幸な人達をお救い下さい」


こうした行為は、大いに誉めそやされてマリー・アントワネットが示した優しさと思いやりに関する評判が世間に広まった。

数々の祝宴が終わって、残ったのは婚儀の祝宴の為に支出した約900億円の勘定書。

ルイ15世は財務総監に「わしのヴェルサイユの祝宴をどう思うかね?」と尋ねると、「陛下、私の思うには…、評価を絶したもの…(支払い不能という意味を兼ねている)でございます」と答えたと言われている。

実際、これらの支出の多くは清算されず、数多くの業者を破産に追い込んだ。

国立文書保存所のファイル整理箱には、落ちぶれた業者の哀れをもよおす嘆願書で溢れている。
彼らは革命初期に至っても尚、20年前にマリー・アントワネットの婚儀の為に支出した費用について、「せめて賦払い金なりと支払って欲しい」と要求していた。





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