アントワネットの兄弟姉妹
【ハプスブルク家の家族たち】
中央の椅子に座るアントニア

■マリア・エリザベ−ト(長女)
(1737年-1740年)
三歳で死去

■マリア・アンナ・ヨ−ゼファ・アントニア(次女)

(1738年-1789年)
18歳の頃の背骨の病気で腰を曲げてしか立てずに『せむしの皇女』と呼ばれながらも学術と芸術に秀でていた。

姉妹、兄弟にも疎まれ、唯一愛情をかけてくれたのが父フランツ1世で彼女の知性を愛していた。

学術に音楽や絵画、バレエまでにも才能に恵まれてウィーン造形美術アカデミー、フィレンツェ芸術アカデミーに迎え入れられたが、18歳の頃の病気を境に女学校へ行く事になり、後に妹マリア・エリザベートも天然痘の後遺症で同校に入学する。

母テレジアは貴族女子の教育施設長に任命するなど結婚以外の道を与えるが、クラーゲンフルトのエリザベート修道院に行きたいと申し出るマリア・アンナの希望に沿って修道院に隣接した城館を建設した。

ヨーゼフの妻マリア・イザベラに冷たかった為か、以来ヨーゼフとの仲は最悪になり、マリア・テレジアが亡くなった後、ヨーゼフは宮廷からマリア・アンナを追放した。
最愛の父との趣味であった自然科学やコインのコレクションも施設へ売却された。

ヨーゼフは私財を投じるマリア・アンナに冷淡だったが、1783年の訪問で感銘して支援する事になり、最期は望みのとおり聖エリザベートの日に亡くなった。

■マリア・カロリーネ(三女)
二歳で死去
(1739年-1741年)

■ヨ−ゼフ2世
(1741年-1790年)
神聖ロ−マ皇帝ボヘミア王・ハンガリー王

■マリア・クリスティー(四女)

(1742年-1798年)
愛称『ミミ』と呼ばれたクリスティーナは、母テレジアに偏愛されて唯一、恋愛結婚を果たして、仲が悪かったと言われる姉マリア・アンナ同様に絵画の才能があった。

兄ヨーゼフの妻イザベラとは仲が良く親密な関係で二人の手紙のやりとりは恋人同士のような文面であった。
最愛の夫はウィーンの王宮に任官していた下級貴族のアルベルト公子で彼との結婚は、母テレジアの夫フランツ1世が亡くなった後に多額の持参金を持たされて嫁ぎテシェン女公となった。

政治的貢献に無能な夫アルベルトは、芸術においては有能で多くの芸術品をコレクションして、アルベルティーナ美術館がアルベルトの絵画館として1776年に創設された。

公国も領土も与えられていたが、母テレジアが亡くなると一人だけ恋愛結婚を認められた故に冷遇されて、この夫妻は一族から見放された。

■マリア・エリザベ−ト(五女)

(1743年-1808年)
1764年にポンパドゥル夫人が亡くなる前年に結婚の使節を遣かわせたマリア・テレジア。
この時マリア・エリザベートは二十歳だったが、フランスへの嫁入りには、まだ当時8歳の妹マリー・アントワネットが彼女よりも先に対象となった。

翌年ポンパドゥール夫人が亡くなり、ルイ15世とエリザベートを娶わせてはどうか…。
最初の結婚使節を遣わせてから3年。
フランス王大子ルイ・フェルディナン、妃マリー・ジョゼフがルイ・オーギュストとの結婚には反対していたが王大子の急死によって、アントワネットとルイ・オーギュストの結婚が決定した。

こうした最中にマリア・エリザベートは死亡率の高い天然痘に架かって、治癒するも醜い痕跡が残ってしまい、姉のアンナと同様に建設した女学校へと追いやられた。
エリザベートは未婚のまま、やがてインスブルック修道院長となって65歳で生涯を終えた。

■カ−ル・ヨ−ゼフ
(1745年-1761年)

■マリア・アマ−リア(六女)

(1746年-1804年)
結婚政策でパルア公のフェルディナンド・ディ・ボルボーネと結婚して妃となり、夫の姉マリア・イザベラは実兄ヨーゼフ2世の兄嫁。
小国公子との恋愛があったが、母テレジアのクリスティーナへの偏愛とブルボン家との同盟と強化・政策の為に北イタリアのパルマに送り込まれた。

アマーリアは、傍若無人な振る舞いで我が意のままに国政を動かそうとして、母テレジアが諌めても無視して、とうとう勘当同様の扱いとなった。

結婚後も親しくしていた姉妹には、マリー・アントワネットとマリア・カロリーナで手紙や贈り物、肖像画の交換をし合っていた。

フランス革命が起こり、獄中にいるマリー・アントワネットは最後の手紙を密かにアマーリアに送っている。

また、アマーリアは自分の娘にマリー・アントワネット(マリーア・アントニエッタ)と名付けた。

アントワネットが処刑されて、ナポレオンがイタリアに侵入して夫が亡くなり、パルマを追放されてプラハの城で1804年に死去した。

■レオポルド2世
(1747年-1792年)
トスカ−ナ大公のち神聖ロ−マ皇帝ボヘミア王・ハンガリー王

■マリア・カロリーネ
0歳で死去
(1748年)

■マリア・ヨハンナ・ガブリエレ
12歳で死去
(1750年-1762年)

■マリア・ヨ−ゼファ

(1751年-1767年)
マリア・テレジアの結婚政策によって、16歳のマリア・ヨーゼファはナポリ王フェルディナンド4世に嫁ぐ予定だったが結婚式を目前に天然痘で死去した。
彼女の代わりに嫁いだのは妹の十女マリア・カロリーナだった。

■マリア・カロリ−ナ(十女)

(1752年-1815年)
妹のマリー・アントワネットと双子のように育つも勉強嫌いの妹との『学術熱心さ』の違いで母テレジアは二人の教育を完全に分離した。

ナポリ王フェルディナンド4世(シチリア王フェルディナンド3世)との縁組で妃となり、最初の男子を誕生させた後、政治上の全権を委ねるという約束がされて士官学校の設立、軍隊編成など母テレジア譲りの意図的で激しい気性、強い個性は国を統治する手腕で発揮された。
また美しく賢明で多くの子供を出産した。

最愛の妹マリー・アントワネットがフランスの革命で断頭台で果てた時もフランス革命軍との戦いにナポリ・シチリア合同軍を組織させた。

ナポリでも革命が起こり、夫フェルディナンドと共に容赦なく共和派を処刑していった。
その後、ナポレオンがフェルディナンドを退位させて、カロリーナは1812年まで実権を握るが息子のフランチェスコ1世との共同統治とはならならず、オ−ストリアに亡命して、不幸から逃れる為にアヘンを常用して62歳で病死した。

■フェルディナント・カ−ル・アントン
(1754年-1806年)
オ−ストリア・エステ大公

■マクシミリアン・フランツ
(1756年-1801年)
聖職者としての道を歩み、1780年にドイツ騎士団総長になって、4年後には選帝権を行使した最後のケルン大司教となり、偉大なる作曲家ベ−トベンのパトロンであった。






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