アンリ・サンソン

1739‐1806年

フランス革命は一般的に1789年7月14日のバスチーユ牢獄陥落に始まって、ルイ16世マリ−・アントワネットの国外逃亡失敗と処刑を経て、恐怖政治を敷いたジャコバン山岳派のマクシミリアン・ロベスピエールらが処刑されたテルミドールのクー・デター1794年7月をもって終了とされる。

いずれにせよ『自由、平等、友愛』の実現を目指す過程では、明らかに無実の者を含めて、およそ革命期にフランス全土で処刑された人の数は対外戦争や内戦の犠牲者を除いても数万、或は10万人以上に達する。

フランス革命下のパリでは、恐怖政治の真っ只中である1793年3月〜1794年7月までの間に2362人がギロチンで処刑された。
多い日には1日、60人以上が首を跳ねられた。

フランス革命が特徴的なのは、彼らが公開処刑された際の様子が証言や日記で残されて、また処刑を一貫して指揮した人物がいる。

『ムシュウ・ド・パリ』と呼ばれた処刑執行人の彼の名前は、シャルル・アンリ・サンソンである。

パりの処刑執行人を事実上、世襲していたサンソン家の4代目の当主で15歳から、40年以上の長きに渡って処刑を手掛けた。
彼は不幸にも激動の時代を生きたが為に先祖や子孫より遥かに多い人間を処刑する破目になった。

その中にはルイ16世やマリー・アントワネット、革命指導者ロベスピエールといった歴史上の人物が含まれる。

ジャコバン派指導者ジャン・ポール・マラーを暗殺した女性のシャルロット・コルデー、ルイ15世の公妾で傾国の美女といわれたデュ・バリー夫人、ルイ16世の従兄弟にも係わらず死刑賛成票を投じて、自らも処刑されたオルレアン公ルイ・フィリップ・ジョゼフもサンソンによって処刑された。

サンソン家の生活は比較的恵まれていたとはいえ、先祖代々の人々が処刑執行人として市民から恐れられて、差別撤廃と地位向上に苦労してきた事と同様にシャルル・アンリも偏見と戦いつつ、そして自身が処刑される危険に直面しつつ、粛々と執行人の義務を果たした。

革命を防げなかった事で愚鈍で無能とされる事の多いルイ16世だが、死に際は見事だった。
1793年1月21日、革命広場に護送された国王は死を見届けに来た大群集に向かい『私は、私が告発された全ての罪について無実のまま死ぬのだ。
私は、私を死に就かせる者たちを許す。
そして、私の血がフランスの上に流される事のないよう神に祈る…』


一ヶ月後、国王を弁護するシャルル・アンリの手紙が新聞に掲載された。
革命が過激さを増す状況下にも係わらず、『ルイ16世ほど偉大な信仰家はいなかった』と記している。

またサンソンは2度、処刑前にルイ16世と会っている。
給与支払いを陳情しに行った時と国王が立ち会ってギロチンを改良した時。
ルイ16世を処刑したギロチンが、国王自身の意見で改良されたものだった事は良く知られている。

皮肉にもサンソン自身は王党派で、ルイ16世を熱心に崇拝しており、自分が処刑するという結果になってしまった事を生涯悔いていた。
フランス革命当時は、ルイ16世の為にミサを捧げる事は死刑になる程の重罪であった。
それでも処刑翌日、弔いの為に自らの素性を隠して司祭父を匿って秘密ミサを上げていた。

ルイ16世の死から、6カ月後に行われた暗殺者シャルロット・コルデーも堂々と死んで逝った。
その美貌から『暗殺の天使』と呼ばれた彼女は25歳の田舎娘にすぎなかった。
気を遣ってギロチンを見せまいとしたシャルル・アンリに対して、コルデーは『私だって物見高くなってもいいでしょう。
まだ一度も見た事がないんですもの』
と語り、身を乗り出した。
シャルル・アンリは断頭台までの護送中、彼女の願いを聞き入れて革手錠を緩めたといわれており、人は彼を『人道的な処刑人』と称した。

更に3ヶ月後に王妃マリー・アントワネットが処刑された。
護送の目撃者によると騎士道精神の持ち主であり、スノッブ(気取り屋)でもあったとされるサンソンは、王妃を極めて丁重に遇した。
サンソンの見たマリー・アントワネットは、最後まで威厳と気高さを失っていなかった。

また革命側に立ち名を『フィリップ・エガリテ(平等)に変えて、ルイ16世の代わりに王位を得ようとしたルイ・フィリップ・ジョゼフも死に際は落ち着き払っていた。
脚にぴったりと嵌まった長靴を脱がせようとしたシャルル・アンリの助手に対して、彼は驚くほど冷静に答えた。

『後からやった方が脱がせやすかろう』

ジャコバン派に政権を奪取されたジロンド派の重要人物、ロラン夫人は死刑判決が下ると微笑みさえ浮かべた。

宮廷画家でマリー・アントワネットの多くの肖像画を遺したルブラン夫人は、回想録で死に逝く人々について述べている。

《恐怖政治の恐ろしい時期に命を落とした女達の中で断頭台を正視出来なかったのは、彼女1人であった。
もし、この凄まじい時期の犠牲者たちが、あれ程までに誇り高くなかったなら、あんなに敢然と死に立ち向かわなかったなら、恐怖政治はもっとずっと早く終わっていたであろう…》


ここで『断頭台を正視出来なかった』と書かれているのは、デュ・バリ−夫人の事である。

シャルル・アンリは、公妾になる以前からの美しかったデュ・バリ−夫人を知っており、かつて2人は恋人同士だった。

美しかった夫人は処刑時には50代になって、往時の面影がないほど太り、死に際して歯の根も合わないほどガタガタ震えながら、金切り声を挙げて自分の無実を叫んで再会したサンソンに助けを求めた。
彼は悲痛のあまり顔をそむけ、処刑を息子の手に委ねた。

革命は、指導者ロベスピエールの死によって一応、終焉を迎える。
恐怖政治を敷いた独裁者の最後は悲惨だった。
ロベスピエールを『清廉の士』と、もてはやしていた群集は自殺に失敗して逮捕された(銃撃されたとする別説あり)、サン・ジュストら仲間と共に、これから処刑される彼に対して罵詈雑言を浴びせ掛けた。
ロベスピエールの首が落ちた時のシャルル・アンリは、それまでの経験と合わせて革命の本質=冷酷非情さを誰よりも理解していた。

10カ月後、今度はロベスピエールの元同志で彼に有罪を宣告した元検事のフーキエ・タンヴィルが処刑される。
シャルル・アンリに処刑を指示して来たタンヴィルは死ぬ間際、脅すように言い放った。
『奴等が検事(私)を死刑に処すからには、処刑人にも死刑を課さないはずがない。
どちらも同罪なのだからな』

幸い、シャルル・アンリは自身の仕事場で処刑される事を免れた。

1806年、シャルル・アンリ亡くなる前にマドレーヌ寺院の建設現場で絶頂期のナポレオンに出会った時、処刑人のサンソンを不気味がりつつ、『もし、ある日、私に対し反逆が起こったとしたら?』と問いかけた。

シャルル・アンリは、ナポレオンに対して『閣下、私はルイ16世を処刑致しました』と落ち着いて答えた。
ナポレオンは、しばし顔色を失った後、『私の目の前から失せろ!』と吐き捨てたというエピソードが残されている。





フランスでは斬首刑が許されるのは特権階級のみで、庶民は罪科によって違うが車引きとか火刑と残酷なものであった。
ルイ16世は残酷な拷問を廃止して、刑を平等にするように命じた。

そして、ギヨタン博士(英称でギロチン)が、パリの処刑人シャルル・アンリ・サンソンと友人でピアノ(当時はハープシコード)作りの機械・製図工でもあるシュミットと共に新しい処刑道具の開発をした。
その最終的設計図を1792年3月にテュイルリー宮殿に住む国王ルイ16世の侍医に提出した。

侍医は宮殿内に事務室を持っており、そこで四人が図面を検討しているとルイ16世が現れて図面を丹念に見た。
錠前作りが趣味で機械物に強い国王の目が刃に行った時、『欠陥はここだ』と指摘して言った。

『刃は三日月型ではなく、三角形で草刈鎌のように三角形になっていなければならない』

そして、ペンを取り『草刈鎌状の刃』を持った器具の図面を書いた。

それから間もなく、この器具の最終案は議会に提出されて『一瞬の内に処刑が済むので、罪人の肉体的苦痛は殆どなく、まさに人道的なものである』ことを強調した。

その後、動物実験などを繰り返して1792年4月25日の午後3時、この装置による初めての処刑が行われた。

それから4ヶ月も経たないうちに国王一家はタンプル塔に幽閉されて、間もなくルイ16世とマリー・アントワネットは国王が最終的に磨きをかけた器具で処刑される事になった。

完成した処刑台の名前は当初、ルイ16世の名をとって『ラ・ルイゼット』あるいは『ラ・ルイゾン』と呼ばれていた。
フランス革命以降、『ギロチン』の名で定着した。

ギヨタン博士はフランス革命当時、処刑台が自分の名前で呼ばれている事に散々抗議したが受け入れられずに改名して、田舎に引き篭ったという。

アンリ・サンソンの生涯

1739年
パリでシャルル・ジャン・バチスト・サンソンの長男として生まれる。
ルーアンの学校に入学するが、2年目で処刑人の子供である事が知られてしまい退学して、グリゼル神父を家庭教師として学ぶ。

1754年
父であるシャルル・ジャン・バチスト・サンソンが病に倒れて半身不随になった為、15歳で死刑執行人代理の職に就き、16歳の時に最初の処刑を行う。

1757年3月27日
ロベール・フランソワ・ダミアンに八つ裂きの刑が行われる。
これがフランスで最後の八つ裂きの刑となった。

1765年1月20日
マリー・アンヌ・ジュジェと結婚。

1767年
長男アンリ・サンソン誕生

1769年
次男ガブリエル誕生

1778年8月
父であるシャルル・ジャン・バチスト・サンソンが正式に引退して『ムッシュ・ド・パリ』の称号を叙任して死刑執行人に就任する。

1792年4月25日
最初のギロチンによる死刑が行われる。

1792年
次男ガブリエルが処刑台から転落死する。

1793年1月21日
ルイ16世を処刑する。

1793年10月16日
マリ−・アントワネットの処刑をする。

1794年7月28日
マクシミリアン・ロベスピエールを処刑する。

1795年
息子のアンリに職を譲って引退する。

1806年
皇帝ナポレオン1世に謁見する。
同年7月4日に死去。



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