ローズ・ベルタン

ローズ・ベルタンは、華麗なドレスとまばゆい装飾品に身を包んだロココの女王と言われたマリー・アントワネットのモード大臣。

ローズ・ベルタン(本名マリー・ジャンヌ・ローラン)の高額な衣装代は、フランスの財政破綻の原因の1つと言われたが、王室がフランスの国費に占めていた割合は、たったの6%で王妃の浪費は、その一部に過ぎず、財政を圧迫したとは考え難いと言われている。

ルイ14世の絶対王政から、華やかなルイ15世の宮廷での浪費、数々の戦争への参戦など国庫が疲弊した原因は1つではなく、数多の要因が積み重なって、最も温厚で国民を愛したルイ16世の時代に試練となって、白日の元に曝されて、浪費の象徴とされたマリー・アントワネットを浪費の象徴のように見せてしまう衣装を作り続けたローズ・ベルタンは、モードの歴史に大きな足跡を残した。

1747年
ベルタンは、繊維の街で知られるフランス北部オーヴィル地方のピカーに下級軍人の娘として生まれた。
12歳でパリへ出て、パジェル女子が経営する仕立て屋『トレ・ガラン』で働き始めた。

1772年2月
見習い及び仕立てた品の配達係をしていたベルタンは、顧客のコンティ大公妃に気に入られて、彼女の紹介で王太子妃マリー・アントワネットのお気に入りとなって、衣装の注文を受けるようになった。

1773年
『ローズ・ベルタン』と名乗って、パリのサントノレ街に自分のブティック『オ・グラン・モゴール』を持ち、モード商人(マルシャンド・ド・モード)として出発した。

モード商人の店では、服を仕立てるだけでなく、服飾小物などの装飾品も扱い、ベルタンは豊富なアイディアでドレスのデザイン、装飾品のコーディネート、奇抜な髪型、香り付きの造花など次々と新しい商品でマリー・アントワネットを魅了していった。

1774年7月ランバル公妃とシャルトル公妃の紹介で王妃になったばかりのマリー・アントワネットに引見を許されたとする説もある。

いずれにしても第三身分にも関わらず、マリー・アントワネットから、寵愛されて貴婦人達の恨みや妬みを買っていた。

1775年
マリー・アントワネットの夫ルイ16世は聖別式を終えて1ヶ月が過ぎ、若き国王夫妻への国民の期待は高まっていた。

しかしルイ16世の身体的欠陥で結婚後5年を経ても処女のままのマリー・アントワネットは、周囲の貴族の嘲笑と母マリア・テレジアからの懐妊を促すプレッシャーを享楽のうちに発散する為に始めたのが流行の先端を行く事だった。

この夏、王妃はベルタンが持参したコンポジション・オネート(礼儀正しい構成)というドレスを発注する為に何種類かの生地を前に頭を悩ませていると、部屋に入って来たルイが16世が『これは蚤の色ですね』と言った。

これが有名な『蚤の色のドレス』で、蚤の色は蚤の腹色、蚤の腿色に区別されて瞬く間に茶、ベージュ等が流行色になった。

また後日、王妃がグレーがかったブロンド色を選んだが、王弟プロヴァンス伯爵が『王妃の髪の色ですね』と言い、この色も神聖な色として流行した。

ヴェルサイユ中の貴婦人達がトレンド・セッター、ファッション・リーダーとしての王妃マリーアントワネットの衣装を真似た。

更にベルタンは、次々と新しい髪型と髪飾りを考案した。
髪型は王妃の髪結い師レオナールも大いに貢献した。

王妃の頭は突拍子もない形状になって、貴婦人達も倣ってヴェルサイユは物凄い髪型のオンパレードになった。
ドレスに合わせた豪華な宝石、靴にも宝石を飾り、衣装代は莫大なものになっていった。

1776年
モード商人組合の理事となったベルタンの評価は様々だった。

『粗野で自惚れが強く、腕っぷしまで強く、マナーも洗練されているどころか下品だった』

『性格は気まぐれで支離滅裂なのだが、友情には厚い』

『他者の専門性を認めると同時に自分のプロ意識も強く、経理に疎い』


●ベルタン嬢と同業のポラールを王妃に紹介した事を根に持ち、ランバル公妃の注文は受け付けなかった。

●ネヴェール男爵と結婚した元女優のキノー嬢の依頼は、昔のオペラ女優の戯言といい断った。

●自分の奉公人だったピコ嬢がブティックを始めた時は、彼女に唾を吐きかけた。

●王妃の注文を独り占めしようとして、競争相手の脚を引っ張るところがあった。

●高慢で喧嘩っ早く、王妃のお気に入りという権威をかさにきて時折、貴婦人すら見下す態度をとるベルタンを王妃が諌めた


ベルタンの逸話は数多く残されている。

1779年2月
マリー・テレーズ内親王の為にノートルダム寺院のミサに参列した帰り、国王夫妻、王族、貴族の行列がサントノレ街に差し掛かるとブティックのバルコニーで行列を見ていたベルタン嬢と使用人に王妃自らが手を振り、国王までも挨拶を贈った事で、その他の王族と貴族も王に倣い、この一介のモード商人に挨拶をした。
この時期、ブティックには総勢30人もの職人・お針子を抱えるローズ・ベルタンの人生最良の時代だった。

1780年7月
王妃マリー・アントワネットの髪結い師レオナールが王妃の髪が抜けて、熱を出し、震えが起きているという事から調香師ジャン・ルイ・ファージョンを訪ねた。

王妃はマリー・テレーズを出産後、抜け毛に悩んでレオナールを介して、ファージョンに相談したところ、ファージョンのオイルと髪粉で回復した事があった。
フランスでは、入浴や洗髪の習慣が無く、大変に不潔で髪を結ったら、一週間はそのままにする為に金属製の頭を掻く為の棒があるような時代で、貴婦人の髪は蚤や虱の温床だった。

その中でマリー・アントワネットは、オーストリアからの習慣で頻繁に入浴して、ファージョンが調合した入浴剤も愛用していた。

レオナールから相談を受けたファージョンは、王妃の為にイリスの香りの毛髪強壮粉にジャスミン、チュベローズ(月下香)、シトロンの実、ジョンキル(黄水仙)の精油のポマードを混ぜた髪粉ポマードを調合した髪粉ポマードで王妃の抜け毛はおさまり、新しいヘアスタイル『コワフュール・ア・ロンファン(子供風の髪型)が生まれた。

レオナールは自分のアイディアだと主張した。

女流画家ルブラン夫人は自分の提案だと言い、王妃のモード商人ローズ・ベルタンまでもが自分もアイディアに関わったと便乗した。
いずれにしても、この髪型は流行してマリー・アントワネットはファッション・リーダーとして揺るぎない地位を確保していた。

1783年
ベルタンのデザインした簡素なシュミーズドレスが流行する。
簡素なデザインで素材は上質なドレスを提供して人気を博した。

1785年、ベルタンは、ブティックを華やかなリシュリュー街へ移転する。
しかしフランスは、折からの経済危機に陥っており、貴族の中にも破産する者が現れた。
ベルタンも貴族から、売り上げの回収が出来ずに多額の負債を負って破産した。

この頃、やっとフランスの国情に気付いた王妃はベルタンの高価な服飾品への出費を控えていく。

1789年
フランス革命勃発後、ベルタンは暫くパリに残って、国旗にしわ加工を施した愛国者風の商品ドレスをデザインしていた。

1791年8月
タンプル塔で幽閉厳生活している王妃の為に4つのボンネット、数枚の肩掛けと数足の靴下を作った。

やがて、ルイ16世が処刑されて、未亡人となった王妃は以後、喪服だけを着るようになった。
ベルタンは喪服の制作を依頼されて二枚の喪服を作った。
これがベルタンが王妃の為に作った最後の服となった。

その後、王妃がコンシエルジュリー牢獄に急遽移される事が決まった事で着の身着のままの王妃の為に後日、王妃がタンプル塔で使用していた服をコンシエルジュリーに運んでいる。

王妃は革命裁判に掛けられて、ベルタンはヴェルサイユ宮殿でいかに王妃が贅沢していたかの証明の為に服の注文書の提示を命じられた。
しかし、ベルタンは気の毒な王妃の為に少しでも役立ちたいと願って、幾つかの注文書を処分した。

その後、亡命先のロンドンで王妃の死を知る。

1800年
パリに帰国後、新にモード商人としてブティックを開いた。
しかし時代は変化していて、かつてロココの宮廷で王妃をはじめとする貴婦人達に人気を誇ったベルタンの時代は終わっていた。

1812年
ブティック、美術品コレクションを手放して翌年、失意と貧困のうちに生涯を閉じた。

以降、ベルタンがブティックを開いたリシュリュー街は、1850年代後半までモードの中心地として栄えた。
彼女が手放した美術品のコレクションは、浮世絵など東洋の物も多く、オリエンタル文化の流行に拍車をかけた。
ベルタンが理事を務めたモード商人組合の理事会は、現在もパリ・オートクチュール組合『サンディカ』として、世界のファッションの中心を担っている。




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