『薔薇一夜』
フェルセン伯爵

1792年2月11日 土曜日
ブリュッセルに滞在中していたフェルセン伯爵は、危険を覚悟の上でパリへと出発する。

前年6月のヴァレンヌ事件では、国民の信頼を裏切る結果となってルイ16世を窮地に立たせた。

ヴァレンヌ事件自体は、ブイエ候爵と息子のブイエ伯爵、ショワズール公爵、そして、フェルセン伯爵等による国王一家誘拐事件として処理された。

しかし、王家の再びの逃亡を阻む為に監視は厳しく、テュイルリー宮殿は、昼夜1200人もの国民衛兵によって警備されて、使用人達に始終監視されていた。

その監視の目を逃れて、マリ−・アントワネットは、何通もの手紙を実兄で神聖ローマ帝国皇帝レオポルト2世をはじめとした外国の君主、外交官、フランス国内では穏健派のバルナーヴ、亡命した友人(特にフェルゼン)に書き送っていた。

マリ−・アントワネットの手紙には、暗号、あぶり出しインク、オレンジ果汁で書かれて、菓子の箱や帽子の縫い目の内側に隠されて届けられていた。

王室の行方が分からない国内状況の中、刻一刻と変化する千々に乱れた心で余りに多くの手紙を書いた為に手紙を受け取る方は、マリ−・アントワネットの真意を計りかねる程だった。

しかし、ただ1人マリ−・アントワネットの幸福と心の平穏だけを願う人がフェルセンだった。
彼はスウェーデン国王グスタフ3世と共にフランス国王一家の救出を模索していた。

グスタフ3世がルイ16世を単独で救出しようとするのに対して、フェルセンは国王一家全員を救出しようと考えていた。
理由の1つには、マリ−・アントワネットへの愛があり、もう1つはフランスに残した家族を人質にされてしまえば、心優しく優柔不断なルイ16世が革命派の言うなりになるのは必至だったからであった。
それでは、ヨーロッパの王政を守るという考えと国王への連帯感でブルボン王家の救出を計るグスタフ3世の思惑とは違う展開になってしまい兼ねず、フェルセンの救出計画は暗礁に乗り上げていた。

また、数週間前にフェルセンは、マリ−・アントワネットから愛の証を受け取っていた。
それは、エステルハージ伯爵の秘密の経路を使って届けられた。

1通目の手紙には、『どれほど距離が離れても、どれほど国を隔てても心を分ける事は出来ません』

2通目の手紙には、な『貴方が何処にいるのか、愛する人達が何処に居るのか、何の便りもなく、知らない事は苦痛です』と、記されて金の指輪が添えられていた。

その指輪には、フランス王家を示す三つの百合の紋章と『臆病者よ 彼女を見すてる者は…』という言葉が刻まれていた。
マリ−・アントワネット自身の指に合わせて指輪は作らた。
そして、2日間、王妃の指に嵌めて、フェルセンへの愛と自らの血の温もりを込めた品であった。

そして、マリ−・アントワネットの愛の証を指に嵌めたフェルセンは、世界中から見捨てられた恋人を救う為にフランスへと旅立つ決意を固めた。
フェルセンの決意を知ったマリ−・アントワネットは、自分の命よりもフェルセンの身を案じて『12月7日に危険を冒してまでパリに来ないで欲しい』と手紙を書いた。

何通もの手紙が行き交う間、フェルセは、あらゆる手を尽くした。
しかし、マリ−・アントワネットを救う手が他から差し延べられる事はなかった。

フェルセンは、マリ−・アントワネットに会い、彼女の傍にいて二人で語り合い、王妃の心を救う事だけを思っていた。

そして、出発にあたりフェルセンは、自分で国王グスタフ3世の署名をした偽造旅券を用意した。
またヴァレンヌ事件の誘拐犯として、逮捕状が出ていた為に正体が分からないように鬘も用意した。

更に外交上の仕事でリスボンに行くという理由でグスタフ3世がポルトガル女王に宛てた手紙を携えて、伝令将校の従僕を装って、郵便馬車でパリへと向かった。

1792年2月13日 月曜日
ヴァレンヌ逃亡事件でも計画から準備、実行までを殆ど独力でやり遂げたフェルセンは、今回も決死の覚悟で途中、詳細な審査を受ける事もなく、午後5時半頃に無事にパリに到着した。
そして、更に危険な場所、国王一家の居住するテュイルリー宮殿へと向かった。

テュイルリー宮には、フェルセンを知っている人もいる為、もしもフェルセンだと知れたら命の保障はなかった。

パリに居いた頃に使っていた通用口に行くと運良く監視の見張りはいなく、鍵も変わっていなかった。
そして、以前通りに進んで、1階にあるマリ−・アントワネットの部屋へと向かった。

此処には、マリ−・アントワネットの寝室と化粧部屋があり、国民衛兵や使用人の監視に煩わされる事はなかった。

そして、お互い愛する者同士、どれだけ障害があっても求めて止まない魂が奇跡を呼んだ。

ヴァレンヌへの逃亡時、ポンディでの別離から8ヶ月ぶりの再会を経て、二人は誰にも知られずに夜を過ごした。

この日、マリ−・アントワネットとフェルセンが、どのように過ごしたのか正確には分からない。
ただフェルセンがグスタフ3世に宛てた手紙には《18時頃にテュイルリー宮殿に入り、国王夫妻に謁見した》と報告されている。

しかし、フェルセン自身の日記には『彼女の部屋に行き、そこに留まった』と記されている。

フェルゼンには、何人もの恋人がいたが、日記に「留まった」と書かれた時は恋人と愛し合った時を指し意味している。

1792年2月14日 火曜日
フェルセンは、国王一家を救出する計画を話し合う為にスウェーデン国王グスタフ3世の代理指命として、テュイルリー宮殿に忍び込んでから、約24時間後の夕方18時頃、監視の目を逃れて宮殿内を移動する危険を避けて、マリ−・アントワネットの部屋を訪れて来たルイ16世と謁見した。

既に廷臣達は次々と亡命して、王党派として国外で反革命活動を繰り広げていた。
それは国王一家の生命を脅かす事にしかならず、二人の王弟すら国王の再三の願いを聞き入れずに安全な外国から、兄ルイ16世を批判し続けていた。

フェルセンの献身は、国王ルイ16世の心を打つも、国王はフェルセンの提案する逃亡計画を断った。
理由の1つは、ヴァレンヌ事件以降、国民衛兵に加えて、召し使いも国王一家を監視する厳しい警備の中で家族5人が脱出する事は不可能である事。
仮に宮殿を出られたとしても、再びヴァレンヌ事件のような結果になれば、その時こそ破滅である事。

そして、もう1つ、国王は何度も国民議会でフランスに留まる事を約束していた。

国民と交わした約束を反古にする事は、国王としての誇りが許さず、フランス国を愛し、国民を愛する誠実な人柄でブルボン王家の一人として、名誉を重んじる国王だった。

また国王は、自分が臆病者で優柔不断と言われている事、決断力の無さも自覚していた。
しかし、国王がその王座を奪われる時は、新勢力に追われる時か侵略される時であり、市民の力で王政そのものが覆されて、君主の無い共和制に移行しようとは想像もできない事態だった。

国王や皇帝の存在は絶対で、事実、革命派の中にも亡きミラボー伯爵をはじめとして、バルナーヴ等の三頭派、デュムーリエ等のフイヤン・クラブ、ジロンド派のように立憲君主制を望む勢力があった。
また、下層階級の民衆は、国王を敬愛している者が少なくなく、バスティーユが陥落した7月14日が最初で最後の絶好の逃亡の機会だった事を悟っていた。
メッツに逃れる決断が遅れて、その後、全世界から見捨てられ、二度と時機は来なかった。

そして、国王は『もう、自分達は救われる望みを持ってはいない。
もしも、救われるなら逃亡ではなく、国外から救助が来る以外に術は無い』
とフェルセンに語った。

フェルセンの日記には『国王は名誉を重んじる人間だ』と敬意を込めて記されていた。

夜21時30分、もはや一刻の猶予もないまま、国王との謁見が終わるとマリ−・アントワネットは、フェルセンを宮殿の戸口まで見送った。

そして、愛するフェルセンと一日を共にしたマリ−・アントワネットの心は安らぎを得ていた。
別れ難い二人に足音が聞こえて来るとフェルセンは、素早く鬘を被りマントを羽織ってテュイルリー宮殿から脱出した。

残されたマリ−・アントワネットは、フェルセンの無事を祈る事しかできないまま、絶望的な別れは愛して止まない二つの魂を無惨に引き裂いて、二人の今生の別離となった。

これ以降、フェルセンは、自国スウェーデンのグスタフ国王を動かして、対仏同盟軍の首脳らとの連携をとって、国際舞台で今度は王妃救出作戦を再開していた。

プロイセン、オーストリア同盟軍の司令官ブラウンシュヴァイク公爵は、コブレンツにおいて、有名な宣言(マニフェスト)をフランス人民に発した。

『フランス国王、王妃に対して侮辱的な言動があり、いささかでも暴力行為がなされた場合、パリを軍事制裁により、焦土と化す』

しかし、この宣言は逆効果となって外国の圧力に奮起したパリでは、宣言に応ずるようにルイ16世の首を落として徹底抗戦の意思表示とした。

残るは、王妃の命と王子の命だが、パリへの要衝となっていたヴァランシエンヌがヨーク公率いるイギリス・ハノーヴァー連合軍によって、陥落せしめられると革命政府は浮き足立った。

王妃救出に超人的な情熱を注ぐフェルセンは、この機に乗じてパリへ総攻撃をかけて、王妃の命と引き換えに有利な講和条約を申し出る計画を同盟軍に提案する。
これは、的を射た提案でヴァランシエンヌの敗北で危機感の高まっていた革命政府側は、王妃の命という切り札を利用して、有利な講和を締結するという腹づもりでいたのである。

フェルセンの案が採択されれば、革命政府はその条件を呑むつもりだった。
ところが、革命政府が王妃の処刑が切迫している事を同盟軍側に信じ込ませて、その命と引き換えの講和条約の申し出を促そうと画策すると、今度は同盟軍側が二の足を踏んだ。
つまり、先のブラウンシュヴァイクのマニフェストによって、国王ルイ16世の処刑を早まらせてしまった失敗体験から、これは下手に相手を刺激すると二の舞いの結果になると慎重策をとったのだった。
つまり、フェルセンの提案を退けて攻撃の延期を決定した。

フェルセンは茫然として、妹のソフィーに『もう、僕は死んだも同然だ』と手紙を書いている。

こうして陰謀によらず、列強を巻き込んでの大規模な軍事行動によって、王妃を救出するというフェルセンの2度目の計画も終に頓挫した…。





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